「晴れ。九時に参朝。国法についての御前会議が行われた。三時に退出、後藤と共に馬車で今戸の容堂公の別荘を訪ね、十二時過ぎに帰宅。英国人達の暗殺を試みた下手人達の捜索が行われる中、同時に欧州各国の法に沿ったポリス制度を整えるべきだという説が出た。私はこれに対し、もし上(政府)と下(人民)の間に調和があれば、東京中の人民全員が耳目の役割を果たしてくれるはずだが、もしこの二つの間に調和が無かったとしたら、例え数千人のポリスを揃えたところで、今回のような暴行を防ぐことは叶わないと主張した。なぜ政府は、ヨーロッパ人が被害を被った時に限り本気で人命を保護しようとするのか?我々自身の国民が殺された場合にも、我々は徹底的な捜査を行うことが肝要だ。だがヨーロッパ人受難の際には、その国の公使等から圧力がかかり、結果として厳密な捜査が行われるのに対し、我が国民受難の際に行われる捜査は疎かなのが実情で、これは憤慨すべきことだ。私は政府でもこの主張を大いに議論したが、どうやら私の意見は今日日少数派のようだ。」
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この事件の後、ハリー・パークスを中心とした各国の公使達から刀を廃止するよう圧力がかかった。我々は結局一年と経たぬ内に散髪脱刀令を発し、更に徴兵令と警察制度が整えられた五年後、廃刀令を発布することになる。これは抗いようの無い時代の流れであり、明治は正に新旧が鬩ぎ合う時代であった
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