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2021/01/05

明治三年十一月十五日 (1871/1/5)

 「晴れ。十時前に参朝。三条公に、幾つかの政府案件について意見を求められた。廣澤を西方に向かわせるという決断が下された。薩摩の状況については公私双方の観点から日頃苦心していたこともあり、このような良い報せを聞くと、国家のためにも喜ばしい。四時頃に退出、帰り道に大木を訪ね、酒を飲み交わしながら話をした。その後、廣澤宅に寄ってから、七時頃に帰宅。山尾常二郎の洋行について、黒田了介(清隆)と話した。」

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三条公は親長州派の公家の筆頭格で、文久の時分からの長いお付き合いだ。彼はいつも政治的に難しい状況で板挟みになられていて、気苦労が絶えなかったであろうことは想像に難くない。彼は優れた決断力をお持ちだったわけでも、特に聡明であられたわけでもなかったが、誰よりも方正謹直であられ、個性豊かな新政府のまとめ役を務めることは、彼と岩倉公を除いて他の誰にも成しえなかったのではないかと思う



2021/01/02

明治三年十一月十二日 (1871/1/2)

 「暁雨、風もようやく落ち着いてきた。六時に錨を上げ、昨晩初めて灯がともされた三ヶ本へと向かった。灯台にも登り、見分した――これは皇国第一の品で、途轍もなく優れた代物だ。八時過ぎに下田に戻り、十時過ぎに錨を上げて蓮台寺にある……宿へ向かい、温泉に閑静な時を過ごした。ここにはこれまで二度ほど来たことがあり、一度目は十七年前、二度目は十六年前であった。十七年前はプチャーチン提督に指揮されたロシアの軍艦が沖に来ていたときのことで、彼の船は津波に沈められたのであった。下田の家々も全て、この波に沈められ、千人近くが命を失った。宮田の守備隊に配属された私と中村百合蔵は、蓮台寺にしばし滞在していた。この旅で、私は箱根山脈の中で大地震を経験したのだ。十六年前は浦賀で商船に乗ってここまで来ており、再び蓮台寺に一泊してから、戸田へと向かったのであった。プチャーチンは前年にスクーナー艦(帆船)を造調しており、私は長州もこの例に倣うよう建言し、二人の船大工を雇い長州のためにスクーナー艦を作るように命じていた。諸藩の中でも一足先に造船や海軍を追求することを唱えたの我が藩であった。当時、このような軍艦を作り得た藩は皇国内に一藩二藩しか無かった。あの旅で下田に来ていた私のために、中島三郎助は色々と周旋してくれたのであった。三郎助と彼の二人の息子達は昨年、函館での戦で命を落とした。私は常に彼の先見の明を尊敬していた。だから昨年、主君の狂気のせいで彼が道を誤ろうとしていると感じたときには、なんとか彼を探し出し、時勢について忠告しようとしたものだ。だが時既に遅く、彼はすでに函館に発った後であった。これは私の一生の遺憾だ。この十六年、十七年、言葉では表せないほどに何もかも変わってしまった。私が今日まで生き延び、この地に再び戻ってくるなど、まったく予想できなかった。どうすれば君父様(毛利元親)の大恩にお返しが出来るのか、私にはわからない。イギリス人のサトウが四時前に来た。正親町三条卿や大久保等と共に下田まで川を下り、半田屋で飲食を楽しんだ。十時過ぎに船に戻った。」

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中島三郎助はペリー来訪時に身分を偽ってでも黒船に乗り込み、交渉をする傍ら船の機構を調査し、更にはその学びを生かして造船や航海に携わるなど、素晴らしく柔軟で行動力にあふれた人物であった。もし彼が生きて新政府に来てくれていたら、一体どれほど貢献してくれたことか……



2020/12/31

明治三年十一月十日 (1870/12/31)

 「晴れ。六時頃に家を出て、大隈の元へ向かった。私が到着した頃には、正親町三条卿は既にお越しになられていた。少しして大久保も到着し、我々は品川沖に停泊中の船の一つに乗船した。イギリス人……も我々と共に乗船していたが、大隈は気分が優れないとのことで一緒に来なかった。今回のこれは灯台の検査の旅だ。十二時に横浜に着くと、イギリス公使パークス夫婦、ロバートソン領事、サトウ書記官が乗船して来た。サトウに会うのは、彼が日本に帰って来てから初めてのことだ。二時過ぎに横須賀に到着し、製鉄所を見分。……宿で小休憩してから七時過ぎに船に戻った。夜にはパークスとサトウと会話。今日は西風が強烈であった。」

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サトウに初めて会ったのは慶応三年で、俊輔と坂本君と一緒に商談を取りまとめようとしていた時のことであった。俊輔は『この人エゲレス人なのに佐藤なんですよ』なんて下らない駄洒落を言っていたが、実はサトウ自身、後に『佐藤』や『薩道』と自称しはじめたのにはたまげた。



明治四年五月十三日 (1871/6/30)

「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの...