「晴れ。徳山の遠藤貞一郎が本末併合について論じに来た。十一時頃に出仕、十二時過ぎに退出し萬代屋に向かい、大黒屋の新築を一見し、片山で杉と久保に会った。徴兵制、その他の改革について議論した。山縣も同席。四時頃に帰宅すると、奥平と小幡が待っていた。萬代屋が大工の正兵衛を連れてきた。深川と……も来て、我々は一緒に飲み語った。九時頃に解散。奥平は残り、泊っていった。」
2021/05/26
2021/05/24
明治四年四月六日 (1871/5/24)
「雨。十一時に出仕。萬代屋に行き、文平と山縣を訪ねた。奥平が話しに来た。夜一時過ぎに奥平と共に中村屋に行き、一泊。記、三好が話しに来た。」
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旧友の奥平二水(謙輔)とは、当時良く一緒に過ごしていたな…… 奥平は義に厚い男で、戊辰戦争の折には会津人の友人であった秋月悌次郎に降伏勧告の手紙を送り、その際に将来有望な会津の少年達を書生として預かったりもした。その内の一人は山川浩の弟で、後に東大総長となった山川健次郎だ。だが、その奥平自身は不幸にも明治九年に前原と共に萩の乱を起こし、斬首となった…… 唯一の救いは、会津の人々が未だに彼に恩義を感じているということであろうか。友よ、安らかに眠れ
2021/05/22
明治四年四月四日 (1871/5/22)
「雨。三条卿、岩倉卿、井上世外(馨)、山縣素狂(有朋)と自宅宛に手紙を書き、中山澄江に託した。北川が訪ねて来た。四時前に藩廟に出仕。退出後、萬代屋に行き、一緒に片山の所へ向かった。山縣と話した。奥平二水が山口に来た。中村屋に一泊。」
2021/05/16
明治四年三月二十七日 (1871/5/16)
「晴れ。十時頃に山縣に会い、一緒に御老公の御住居へと向かった。御老公の体調は今朝悪化したものの、今は少し落ち着いていると聞かされた。一時過ぎに再びお会いに行くと、更にお元気になられているようであったが、この後どうなるのか、皆懸念していた。知事公は来月四日に東京に向けて発つ予定であったが、父君の御看護のため出発を遅らせる願出を出した。これを伝えるため、神代浪江が今夜東京に向けて出発した。私も、岩倉卿宛の手紙一通と、井上少輔、山縣少輔、三浦少丞宛の手紙一通を彼に託した。九州出兵の一件は薩摩藩が建言したものであったが、まだ一兵卒として派出されておらず、その為数多くの噂が囁かれている。言動の齟齬は人々の間に疑念を生むものだ。私は山根秀輔より報告を受けている、この件の現状について報告を行った。また本日、士族は申請すれば常職を解かれるという公布が行われた。この、私が提案した法令が失敗しないことを切に願う。もしこの法令が確立されれば、十年と経たぬうちに士族階級を廃止できると、私は疑っていない。藩廟を退出してから、徳山の遠藤と岩国の安田を訪ね、それから福原清介に会いに大和に向かった。山縣、坪井、奥平と大津が来て、一同は八時過ぎに片山の所へと戻った。山縣を含めた一同が、今夜藩廟に泊まることを決め、私は九時過ぎに御老公のお見舞いに向かった。御病気は一変し、非常にお苦しみのようであった。大参事も皆同席していた。朝の三時、四時、五時となるにつれ、御老公の苦しみは更に悪化し、見るに堪えなかった。全員が色を失っていた。」
2021/05/15
明治四年三月二十六日 (1871/5/15)
「晴れ。十時過ぎに、御老公をお見舞いした。昨夜より、病は酷く酷く悪化してしまったようであった。それから藩廟に出仕し、先日経済的観点を見落としていた藩兵と献兵の一件について再度議論した。未だ最終決定には至らず。退出時に、山縣と共に長屋藤兵衛を訪ね、それから片山の所へ向かった。御老公の体調は如何か尋ねる文を認め、何とか元気を取り戻しになられ、気分も回復し、食事も薬もお召し上がりになられているとの報せを頂いた。担当医達も一安心していると聞かされ、安堵した。ただただ迅速な御快復を祈るのみだ。十一時頃に二水と中村屋に一泊。」
2021/05/14
明治四年三月二十五日 (1871/5/14)
「晴れ。十時頃に山田を訪ねるが不在で、そこから大津の所へと向かった。帰り道、高杉家の近くを通る際に細君に出会い、今朝、御老公の病が悪化したと知らされた。また高杉翁がこの件について私に書き送った文も見せて頂いた。直ちに御老公の御住居に出向き拝謁。御老公は私とお会いになられ ―― 私は不覚にも涙を流してしまった。病のせいか、御気色が盛んになっているように見受けられ、担当医達も気遣われているようであった。聞かされたところによると、体調は今朝より少しずつではあるが改善してきているとのことであった。十二時前に帰宅。昨日の内に河北一から、今日は知事公が私をお訪ねになられる予定だと聞かされていてが、御老公の病の件もあり、これがどうなるかは不明であった。しかし御老公の体調が改善したこともあり、知事公は四時頃にお越しになられた。山縣弥八、大津四郎衛門、奥平数馬、及び四人の近侍もこの会合に同席。知事公は七時前に御帰りになられ、八時には他の者達も皆去った。記、長松少辨から日田県に関する手紙が届いた。」
2021/05/13
明治四年三月二十四日 (1871/5/13)
「雨後曇り。十一時頃に藩廟に出仕する途中、奥平二水に会った。二水は昨夜、熊毛から戻ってきたところだとの話であった。帰り際に萬代屋に寄り、それから杉猿村を訪ねた。大蜀として士族を率いる役割云々や、藩廟に布令係を置くことで人々がその日の内に決められた決定について知ることが出来るようにするべきだと論じた。これらは可能な限り早く実現したいと思う。五時頃、まだ雨が降っている中を帰った。山縣弥八が滞在している片山の所へと向かうと、数名の客が来ており、二水もその中にいた。十時過ぎに二水と中村屋に行き一泊。」
2021/03/01
明治四年一月十一日 (1871/3/1)
「晴れ。今宵、岩倉卿が両公をお訪ねになり、私も同席した。終日、来客絶えず。今夜は山縣狂介(有朋)の家で人々と話した。久保や杉が居た。記、今日、奥平二水(数馬)が萩に帰ってきた。」
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杉や奥平の様に風流な友人達はかけがえのない宝物だ。一年前に私が萩に戻っていた時も、我々は秘密の会合を開き、一興としてこの火鉢に寄せ書きをしたのであった。私が石を、杉が竹を、奥平が山茶花を、宍戸が梅を描き、野村が詩を書いたのだ。名作ではないかね?
明治四年五月十三日 (1871/6/30)
「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの...
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「雪舞うこと花咲くが如く。ここ十七年のうちでも一番に寒い冬だ。十二時に、両公が勅使の滞在している旅館で晩餐会を開かれ、私も参席した。三時頃に廣澤の家に行き、次に湯田で大久保に会い、九時過ぎに宿に戻った。来客が引っ切り無しで非常に忙しかった。」
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「晴れ。内海と他の者達が訪ねて来た。私は二時過ぎまで布団の中で過ごした後、諸氏と散歩に行き、歯科医のエリオット先生を訪ね、その後プロイセン公使を訪ねた。公使とケンパーマンには長州公からの贈り物である漆器と縮緬をお渡しした。今日はプロイセン皇帝の誕生日だそうで、また戦勝記念日でもあ...
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「晴れ。朝から各所より来客あり。近頃、湯治に来ている肥後の人間が一二名も話をしに来た。十一時過ぎに杉を訪ね、一緒に政廟に出仕、血気盛んな若者達の問題について議論した。五時に退出し、湯田で岩倉卿との謁見し、大久保と会った。帰り道に西郷を始めとした今回山口城に入城した人々を訪ねた。皆...

