2020/12/31

明治三年十一月十日 (1870/12/31)

 「晴れ。六時頃に家を出て、大隈の元へ向かった。私が到着した頃には、正親町三条卿は既にお越しになられていた。少しして大久保も到着し、我々は品川沖に停泊中の船の一つに乗船した。イギリス人……も我々と共に乗船していたが、大隈は気分が優れないとのことで一緒に来なかった。今回のこれは灯台の検査の旅だ。十二時に横浜に着くと、イギリス公使パークス夫婦、ロバートソン領事、サトウ書記官が乗船して来た。サトウに会うのは、彼が日本に帰って来てから初めてのことだ。二時過ぎに横須賀に到着し、製鉄所を見分。……宿で小休憩してから七時過ぎに船に戻った。夜にはパークスとサトウと会話。今日は西風が強烈であった。」

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サトウに初めて会ったのは慶応三年で、俊輔と坂本君と一緒に商談を取りまとめようとしていた時のことであった。俊輔は『この人エゲレス人なのに佐藤なんですよ』なんて下らない駄洒落を言っていたが、実はサトウ自身、後に『佐藤』や『薩道』と自称しはじめたのにはたまげた。



2020/12/30

明治三年十一月九日 (1870/12/30)

 「朝曇り、十時過ぎに晴れる。九時に参朝、三時に退出、延寮館に向かいオランダ公使と面会した。正親町三条卿、徳大寺卿、大久保、佐々木、大木、吉井等が同席していた。今日は大島似水が自宅を訪ねて来た。夕方、廣澤から招待があり、一家総出で彼の家に向かった。噺家の文喋が居た。」

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この時代の落語は面白かった!文喋はかの桂一門の一角で、よく招待してくれたものだと廣澤には言ったものだ。この日の宴には山尾や宍戸、山縣、山田といった長州勢がみんな参加しており夜中の十一時まで続いた。

2020/12/29

明治三年十一月八日 (1870/12/29)

 「晴れ。神田邸の馬車に乗って、伊東寛斎を訪ね、一緒に築地のヨンハンの所へ向かったが、生憎と不在であった。だが帰り道で彼と鉢合わせになり、伊藤芳梅(博文)の家で治療を受けた。その後大隈を訪問してから参朝し、三条公の家で会議が開かれると聞いた。三職は皆もう移動中だというので、私も三条公の家に向かい、六時過ぎに帰宅。夜に雨。」

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私は生涯持病に苦しめられたが、幸い有能な国内外の医師達に恵まれていた。伊東寛斎は伊東玄朴の娘を娶った蘭方医で、まずは幕府医師、次いで宮中侍医となった人物で、私もよく診てもらったり、このヨンハンみたいな海外の医者に会いに行くときに付き添いで来てもらったものだ。

2020/12/28

明治三年十一月七日 (1870/12/28)

 「晴れ。九時に参朝、四時に退出。その後廣澤と神田邸に向かったが、誰も居なかったので直帰。藤田興次右衛門が来た。一緒に廣澤を訪ね、そこで長州からの文を読み交わした。八時に家まで戻り、藤田は一泊していった。河瀬夫婦も泊っていった。」

2020/12/27

明治三年十一月六日 (1870/12/27)

 「晴れ。朝廣澤を訪ね、十二時前に帰宅。長安と川瀬が訪ねて来た。一時過ぎに馬車で築地に向かい、その道すがら毛利恭助、吉井源馬、田中顕助、井上世外(馨)に出くわした。後で賣茶楼で落ち合う約束をしてから、柳原卿を訪ね、その後平岡平吉を訪ねた。会話の途中で、我が長州公の弟君……氏がまだ大島郡……に暮らしていると聞いた。五時に席を辞し、賣茶に向かい、八時に帰宅。伊勢小淞と杉猿村から手紙が届いた。倉敷権大参事……が私の不在中に訪ねて来たようであった。」

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田中君は幕末の動乱を生き抜いた人物としてはかなり長命で1939年まで生きた。浮き沈みの大きい人生ではあったが、晩年には零落した志士の遺族達の庇護、遺品や資料の保存に力を尽くしてくれた。土佐生まれにも関わらず東行の弟子を名乗っており、東行詩集の出版も全て彼のお陰だ。



2020/12/26

明治三年十一月五日 (1870/12/26)

 「晴れ。朝、山田市之允(顕義)が話をしに来た。十一時に染井に向かった。今朝、三条公からの御手紙が届き、私はすぐに返事を返した。」

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私や大久保、西郷みたいに背が高いと、人の上に立つうえで色々と役に立つものだが、市君はちっこいのをものともせず、実力だけで皆の尊敬を勝ち取った凄い奴だ。世界広しと言えども、去年暗殺の憂き目に遭った大村の意志を継げるのは、小ナポレオンたる彼ぐらいのものであろう。



2020/12/25

明治三年十一月四日 (1870/12/25)

 「晴れ。九時に参朝、四時に退出。そのまま廣澤の所に直行して、時事について相談した。帰り道に三浦を訪ね、その後三浦が私の家に来た。記、今朝は河野と楢崎の来客があった。」

2020/12/24

明治三年十一月三日 (1870/12/24)

 「晴れ。九時に参朝、四時に退出。井上世外(馨)が話をしに来て、泊っていった。記、井上省三がケンパーマンからの伝言を届けに来た。」

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この日の門多は、また性懲りもなく私のお気に入りの茶碗を『クリスマスプレゼント下さい』とか言って所望したのであった。あいつは面倒見の良い好漢だが、時に蒐集熱が過ぎるのが玉に瑕だ。



2020/12/23

明治三年十一月二日 (1870/12/23)

 「朝晴れ、夕方曇り又小雨。三時過ぎに太政官を退出。天皇陛下が五時に行幸からお戻りになられた。夜、吉富の元へと向かった。」

2020/12/22

明治三年十一月一日 (1870/12/22)

 「暁雨、十二時頃に晴れる。今朝、黒田了介(清隆)がロシア人達との会合について議論にやって来て、先日彼と検討した私の洋行についても話を交わした。永安和惣、太畑、鹿島達がやって来た。斎藤篤信斎もお越しになられた。近々海外に行く予定の典薬寮の医師、伊東も出立の挨拶に来た。四時過ぎに江藤を訪問し、今夜は宿直の任のため、彼の家から直接皇居へと向かった。今夜は正三卿(正親町三条実愛)が相役で、夜分には天皇陛下から御酒と食事を賜った。」

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斎藤弥九郎先生には足を向けて寝られぬ。剣の達人でありながら、早くから海外への興味をお持ちで、江川英龍先生とも良く交流なされており、私はその縁でペリー来訪後の海岸線の測量に携わることが出来たのだ。もし先生が私を紹介して下さらなかったら、今日の私は無いであろう



2020/12/21

明治三年閏十月二十九日 (1870/12/21)

「晴れ。五時に参朝。今日は天皇陛下が行幸なされる日で、六時過ぎに坂下門の外で御輿をお見送りした。三時に退出。帰り道に神田邸宍戸を訪ね、その後少しして帰宅。長三州の新居も訪問した。その後吉富を訪ね、福原と吉富と共に六時頃に自宅に戻り、食事した。」

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長君は豊後生まれにも関わらず、奇兵隊の立ち上げに駆け付けたり、馬関戦争で戦ったり、戊辰戦争に従軍したりと、非常に活動的な男だ。それでいて漢学、漢詩、書の造詣が深く、話していて非常に楽しい。私も字には自信ある方だが、奏議の際にはよく彼に代筆して貰ったものだ

2020/12/20

明治三年閏十月二十八日 (1870/12/20)

 「晴れ。九時に参朝、三時過ぎに退出。廣澤と一緒に神田邸へと向かい、四時過ぎに帰宅。山縣狂介(有朋)が話をしに来た。記、夜、三浦梧楼が話をしに来た、斎藤も来た。」

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神田邸というのは、今は大手町の三井物産ビルがある場所に位置していた藩邸で、元は姫路藩のものであったのを、私自ら交渉して購入した思い出の物件だ。御覧の通り御堀の手前と立地条件は最高で大分気に入っていたのだが、それほど経たぬ内に政府の都合でまた引っ越さねばならなくなったのであった……



2020/12/19

明治三年閏十月二十七日 (1870/12/19)

 「晴れ。九時に参朝、三時に退出。板垣を訪ねたところ、福岡も予期せずそこに居た。その後、伊東寛斎と共に、アメリカ人の医者に診察を受けに向かった。帰り道に、明日東京を発ち、数日の内にアメリカへと向かう予定の伊藤芳梅(博文)を訪ねた。木梨平之進も彼に同行することを決意したらしく、昨日私の家を引払い伊藤の元へと移動していた。木梨は有志の士であり、私の旧友だ。だが体が弱く何度も死にかけていたこともあり、夏の間東京へと来るよう勧めており、それで私の家に滞在していただのであった。典医である伊東が木梨のために出来る限りのことを尽くしてくれたおかげで、彼の体調も改善し此度の旅を決意できるようになったのだ。私としても嬉しい。十時前に帰宅。」

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木梨君はこの渡航で俊輔と仲が良くなったようで、その縁もあってか、後には聞多の百十国立銀行設立にも携わったのだとか。私も頼まれて口座を作りはしたが、後に倒産しかけたのには閉口した。結局、聞多の金策で際どい所は逃れたようだったが…… 

2020/12/18

明治三年閏十月二十六日 (1870/12/18)

 「晴れ。渡邊昇が時勢を議論しに来た。今日は南風が強烈だ。」

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渡邊君は剣の腕が優れているだけでなく、熱量が凄い人物だ。彼が率先して、薩長連合の件で坂本君を紹介してくれたのは僥倖であった。



2020/12/17

明治三年閏十月二十五日 (1870/12/17)

 「九時に参朝、三時過ぎに退出。その後廣澤と松本楼で開かれた土方の送別会に向かい、七時過ぎに帰宅。後藤からの手紙が届いた。今日は板垣と福岡が藩政に関する提言を聞くために参朝したのであった。記、板垣とは前もって藩政について議論を交わしていた。」

2020/12/16

明治三年閏十月二十四日 (1870/12/16)

 「晴れ。九時に参朝、三時に退出。今日は、工部省権大丞に任官された山尾と共に皇居へと向かった。夏以来、工部省の提言についての議論が紛糾していたわけだが、今月11日に政府は漸く結論を出したようだ。北川と松原に向けて手紙を出した、三宅庸助と柿野三郎についてだ。この二人は昨年から放蕩の限りを尽くしており、繰り返し教訓を与えても行いを改めずにおり、終いには逃走したのであった。杉孫七郎に向け、国事について一筆認めた。」

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山尾君とは嘉永五年からの長い付き合いだ。練兵館での鍛錬、一緒に湯屋に行ったり、蛤鍋茶漬けを食いに行った日々はまるで昨日のことのように覚えている。それが今や生きたる器械となり、日本工業化を推し進めている。偉い!


2020/12/15

明治三年閏十月二十三日 (1870/12/15)

 「晴れ。今朝は近所の植木屋を散歩した。十二時にロシア人とプロイセン人ケンパーマンが来訪し、三時過ぎに去った。木梨、山尾、南も同席し、ヨーロッパの近状について語った。山尾と南と共に、近所で売りに出ている家を見に行った。四時頃に、神田邸で木梨のアメリカ行きについて話し、五時頃に帰宅。東京に到着した土佐の板垣と福岡から手紙が届いた、共に藩政改革等について協議したいとのことであった。」

明治四年五月十三日 (1871/6/30)

「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの...