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2021/05/26

明治四年四月八日 (1871/5/26)

「晴れ。徳山の遠藤貞一郎が本末併合について論じに来た。十一時頃に出仕、十二時過ぎに退出し萬代屋に向かい、大黒屋の新築を一見し、片山で杉と久保に会った。徴兵制、その他の改革について議論した。山縣も同席。四時頃に帰宅すると、奥平と小幡が待っていた。萬代屋が大工の正兵衛を連れてきた。深川と……も来て、我々は一緒に飲み語った。九時頃に解散。奥平は残り、泊っていった。」

2021/05/22

明治四年四月四日 (1871/5/22)

「雨。三条卿、岩倉卿、井上世外(馨)、山縣素狂(有朋)と自宅宛に手紙を書き、中山澄江に託した。北川が訪ねて来た。四時前に藩廟に出仕。退出後、萬代屋に行き、一緒に片山の所へ向かった。山縣と話した。奥平二水が山口に来た。中村屋に一泊。」

2021/05/20

明治四年四月二日 (1871/5/20)

「刺賀佐兵衛、岡義右衛門、宍戸……、内藤次郎、……と長府の三好周亮が訪ねて来た。山田市之丞(顕義)が、元会津人の日下一郎を連れて来た。日下は先日久留米のあたりで九州の近情を調査してきたばかりで、難波を経由して山口に戻って来たところであった。私は彼にもう一度日田に行ってもらいたいと思っている。李家文厚、三好軍太郎、岩岡安田……が来て、前途諸事について議論した。十一時頃、藩廟に出仕、退出時に長府の三好を訪ねたが不在。次に、萬代屋と片山屋に行き、山縣と杉と話した。三月二十一日(5/10)付けの三条岩倉両卿からの手紙が届いた。その中には最近の東京での出来事やご決断について書かれており、わたしはこの手紙を通じて東京の近情をよく理解した。今夜、中村屋に泊まりに行った。」

2021/05/17

明治四年三月二十八日 (1871/5/17)

「曇り。五時過ぎに御老公が遂に御隠れになられた。この悲痛は言葉に出来ない。家督をお継ぎになられてから三十七年間、御老公は皇国内外の統治に御苦心なされ、その功績は寸紙には記しきれない。御老公は政府の御柱であり、石江家の復興を成し遂げられたお方だ。今日、この死が世間に報じられれば、その影響は万事に及び、人心に動揺を引き起こしてしまうのではないかと不安だ。知事公が御葬式の指示を出された。私は十一時前に退出し、四時頃に再び戻ってきたが、その頃には、皆退出した後であった。帰り道で柏村に会った。その後山縣の所に行き、九時前に帰宅。今日、宍戸敬宇と山縣素狂(有朋)からの手紙が届いた。素狂の手紙には、東京で行われている厳重な取り締まりの詳細が記されていた。」

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今日、松平公、伊達公、山内公、島津公は『四賢候』と呼ばれている。一方の御老公は未だに『そうせい侯』なる陰口を叩かれている……誠に嘆かわしい。常に主君として責任を背負い、有能な人材を登用した御老公は、常に誰が何と言おうとも、私にとって一番の賢候だ



2021/05/16

明治四年三月二十七日 (1871/5/16)

 「晴れ。十時頃に山縣に会い、一緒に御老公の御住居へと向かった。御老公の体調は今朝悪化したものの、今は少し落ち着いていると聞かされた。一時過ぎに再びお会いに行くと、更にお元気になられているようであったが、この後どうなるのか、皆懸念していた。知事公は来月四日に東京に向けて発つ予定であったが、父君の御看護のため出発を遅らせる願出を出した。これを伝えるため、神代浪江が今夜東京に向けて出発した。私も、岩倉卿宛の手紙一通と、井上少輔、山縣少輔、三浦少丞宛の手紙一通を彼に託した。九州出兵の一件は薩摩藩が建言したものであったが、まだ一兵卒として派出されておらず、その為数多くの噂が囁かれている。言動の齟齬は人々の間に疑念を生むものだ。私は山根秀輔より報告を受けている、この件の現状について報告を行った。また本日、士族は申請すれば常職を解かれるという公布が行われた。この、私が提案した法令が失敗しないことを切に願う。もしこの法令が確立されれば、十年と経たぬうちに士族階級を廃止できると、私は疑っていない。藩廟を退出してから、徳山の遠藤と岩国の安田を訪ね、それから福原清介に会いに大和に向かった。山縣、坪井、奥平と大津が来て、一同は八時過ぎに片山の所へと戻った。山縣を含めた一同が、今夜藩廟に泊まることを決め、私は九時過ぎに御老公のお見舞いに向かった。御病気は一変し、非常にお苦しみのようであった。大参事も皆同席していた。朝の三時、四時、五時となるにつれ、御老公の苦しみは更に悪化し、見るに堪えなかった。全員が色を失っていた。」

2021/05/15

明治四年三月二十六日 (1871/5/15)

「晴れ。十時過ぎに、御老公をお見舞いした。昨夜より、病は酷く酷く悪化してしまったようであった。それから藩廟に出仕し、先日経済的観点を見落としていた藩兵と献兵の一件について再度議論した。未だ最終決定には至らず。退出時に、山縣と共に長屋藤兵衛を訪ね、それから片山の所へ向かった。御老公の体調は如何か尋ねる文を認め、何とか元気を取り戻しになられ、気分も回復し、食事も薬もお召し上がりになられているとの報せを頂いた。担当医達も一安心していると聞かされ、安堵した。ただただ迅速な御快復を祈るのみだ。十一時頃に二水と中村屋に一泊。」

2021/05/14

明治四年三月二十五日 (1871/5/14)

「晴れ。十時頃に山田を訪ねるが不在で、そこから大津の所へと向かった。帰り道、高杉家の近くを通る際に細君に出会い、今朝、御老公の病が悪化したと知らされた。また高杉翁がこの件について私に書き送った文も見せて頂いた。直ちに御老公の御住居に出向き拝謁。御老公は私とお会いになられ ―― 私は不覚にも涙を流してしまった。病のせいか、御気色が盛んになっているように見受けられ、担当医達も気遣われているようであった。聞かされたところによると、体調は今朝より少しずつではあるが改善してきているとのことであった。十二時前に帰宅。昨日の内に河北一から、今日は知事公が私をお訪ねになられる予定だと聞かされていてが、御老公の病の件もあり、これがどうなるかは不明であった。しかし御老公の体調が改善したこともあり、知事公は四時頃にお越しになられた。山縣弥八、大津四郎衛門、奥平数馬、及び四人の近侍もこの会合に同席。知事公は七時前に御帰りになられ、八時には他の者達も皆去った。記、長松少辨から日田県に関する手紙が届いた。」

2021/05/12

明治四年三月二十三日 (1871/5/12)

「雨。斎藤栄蔵が来た。吉春も話しに来た……彼は佐畑の父だ。二時頃に久保が来て、昨日の評決の経済面について山縣が不服に思っていると教えてくれた。私はこの一件について目的を成就することが出来なくなることを恐れ、もう一度評議を開きたいと考え、野村の所へと向かった。不在であったので、一筆書き残しておいた。山田の所に行ったが不在で、また山縣の所も試したが同じく不在であった。六時過ぎに帰宅。今夜は片山一家と大津翁が訪ねて来た。夜、野村からの手紙が届いたので、すぐに返事を返した。記、遠田甚助に手紙を出した。野村の手紙の中には、群用局設立の案が今日認可されたと書かれていた。これは先日、私が建言していた提案で、政府と人々の間のやり取りを改善するためのものだ」

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実を言うと、事前に訪問する約束を取り付けずに人を訪ねるのは私の趣味のようなものだ。私の立場柄、事前に約束をすると、多くの人々を構えさせてしまい、率直な意見を聞けないこともあるのだ。とは言え、この日の様に三件訪ねて全て不在だと流石に気落ちしてしまう……

2021/05/10

明治四年三月二十一日 (1871/5/10)

「曇り後晴れ。十一時頃に山田を訪ねたが不在。藩廟に向かう途中に大津に会い、家に招待された。山縣と久保も同席しており、暫し話し込んでから一緒に藩廟に出仕。三時に退出。帰り際に小幡を訪ねてから山縣の所に行った。夜、久保と山縣が私のところに話しに来た。」

2021/05/09

明治四年三月二十日 (1871/5/9)

「雨。大津、山縣、福原三蔵が訪ねて来た。福原は今日東京に向けて発つ。私は山縣狂介(有朋)、宍戸三郎、三浦梧楼、吉富藤兵衛宛の手紙を彼に託した。十二時に藩廟に出仕、退出時に山縣を訪ねてから宿に戻った。山田が陸軍局の問題について話しに来た。」

2021/04/27

明治四年三月八日 (1871/4/27)

 「雨。連日の雨でじっとりとしている。この七日間、一日として晴れるのを見ていない。大津、野村、山田、その他来客が絶えなかった。十一時過ぎに藩廟に向かい、退出する際に小幡を訪ねたが不在であった。宿に戻ると、山縣、小幡、杉が話をしに来た。酒を飲みつつ談笑していると、山田、木梨、野村、中村、三好、杉山も来て、軍の問題について談じた。私は山田と現状について議論を交わした。まず五時過ぎに山田と一部の客が去り、六時過ぎに山縣と残りの客が去った。」

2021/04/23

明治四年三月四日 (1871/4/23)

 「雨。山縣弥八と山縣源八が来訪。十一時頃に山縣達と高杉の所に向かい、飲み語った。杉も参加した。その後一同で野村の所に向かうと、大津も加わった。大津、杉、野村と共に廣澤の家を訪ね、この忠臣の位牌の前で手を合わせた。廣澤一家の悲しみの深さは言葉に出来ないほどに深く、また私自身もこの家には何度も来ていたものだから、目に映る何もかもが彼との思い出を想起させた。柏村が訪ねて来て、我々は黄昏時に去った。三氏と別れてから、私は湯田に向かった。正二郎は朝の内に湯田まで来ていて、私達は共に湯につかった。結局私は一泊した。三好、中村、杉山、その他数名が私に会いに来た。今日、宍戸、佐畑、吉富、藤井又八十衛、惣兵衛に手紙を出した。記、岩国の安田源蔵が訪ねて来た。」

明治四年五月十三日 (1871/6/30)

「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの...