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2021/01/18

明治三年十一月二十八日 (1871/1/18)

「晴れ。朝から来客が絶えなかった。三時過ぎに馬車で黒田了介(清隆)、福岡藤次(孝弟)、宍戸三郎と門脇……を訪ねる。後藤、大隈、山口、江藤達が訪れた。黄昏時に島団衛門を訪ねる。夜になると廣澤、三浦、長、吉富、福井、河村、有吉、斎藤、杉山等、多くの客が私の門出を祝いに来た。十二時頃に解散。」

2021/01/05

明治三年十一月十五日 (1871/1/5)

 「晴れ。十時前に参朝。三条公に、幾つかの政府案件について意見を求められた。廣澤を西方に向かわせるという決断が下された。薩摩の状況については公私双方の観点から日頃苦心していたこともあり、このような良い報せを聞くと、国家のためにも喜ばしい。四時頃に退出、帰り道に大木を訪ね、酒を飲み交わしながら話をした。その後、廣澤宅に寄ってから、七時頃に帰宅。山尾常二郎の洋行について、黒田了介(清隆)と話した。」

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三条公は親長州派の公家の筆頭格で、文久の時分からの長いお付き合いだ。彼はいつも政治的に難しい状況で板挟みになられていて、気苦労が絶えなかったであろうことは想像に難くない。彼は優れた決断力をお持ちだったわけでも、特に聡明であられたわけでもなかったが、誰よりも方正謹直であられ、個性豊かな新政府のまとめ役を務めることは、彼と岩倉公を除いて他の誰にも成しえなかったのではないかと思う



2020/12/22

明治三年十一月一日 (1870/12/22)

 「暁雨、十二時頃に晴れる。今朝、黒田了介(清隆)がロシア人達との会合について議論にやって来て、先日彼と検討した私の洋行についても話を交わした。永安和惣、太畑、鹿島達がやって来た。斎藤篤信斎もお越しになられた。近々海外に行く予定の典薬寮の医師、伊東も出立の挨拶に来た。四時過ぎに江藤を訪問し、今夜は宿直の任のため、彼の家から直接皇居へと向かった。今夜は正三卿(正親町三条実愛)が相役で、夜分には天皇陛下から御酒と食事を賜った。」

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斎藤弥九郎先生には足を向けて寝られぬ。剣の達人でありながら、早くから海外への興味をお持ちで、江川英龍先生とも良く交流なされており、私はその縁でペリー来訪後の海岸線の測量に携わることが出来たのだ。もし先生が私を紹介して下さらなかったら、今日の私は無いであろう



明治四年五月十三日 (1871/6/30)

「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの...