「雨。七時過ぎに、布引屋で朝食を食べた。十時過ぎに福山藩の蒸気船に乗り、二時過ぎに大阪に到着。常安邸に行き、六時過ぎに杉、野村、小川と共に播吉を訪ね、書道と水墨画を見た。その後川佐楼に行き、十二時に帰邸。三条卿、岩倉卿とイギリスに留学している河瀬宛に手紙を書いた。朝二時過ぎに強烈な風。記、張秋谷の画の表装が終わったと、五兵衛が持って来た。」
2021/04/15
2021/03/16
明治四年一月二十六日 (1871/3/16)
「曇り。来客山の如し。松田京都大参事も態々大阪からお越しになり、私達は時事を議論した。松田は十年来の知己だ。山縣、山田、三好と会議を開き、御親兵やその他将来の課題について議論し、新たに着手する事々の計画を立てた。河内宗一郎が、会津人の日下一郎をを連れて来た。日下は私に身上を託すとのことであったので、私は吉井と相談し、今日、吉井宛の紹介状と共に送り出した。河野は毎日訪ねて来てくれている。佐々木と松本も来た。記、西郷信吾(従道)が話に来た。大阪の権典、石田太郎も来た。五兵衛に張秋谷の画の表装を依頼した。」
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維新後、私は有能な人材は、出自を問わず誰でも採用しようと可能な限り努力したが、それでも会津の人々には不要に肩身の狭い思いをさせてしまったと悔いている。そんな中、日下は逆風も厭わず、持ち前の意志の強さで機会を掴んだ立派な奴だ。私が会った時僅か二十歳であった彼は、鳥羽伏見・会津・函館と連戦の後、維新後に名を変え、長崎や大阪で支援者を求め、ようやく聞多の知遇を得ることに成功し、後に岩倉使節団に参加する。帰国後は内務省や長崎・福島県知事、外国大使等を歴任。そして後には渋沢とも協力し故郷に岩越鉄道を開通させることに尽力した、会津出身の出世頭の一人だ。ちなみに日下(くさか)と言う名は、会津の出自を隠し、長州人のフリをしようとして、久坂(くさか)玄瑞から連想してつけた名前だという説があるが、さて本当の所はどうなのであろう……
2021/03/06
明治四年一月十六日 (1871/3/6)
「曇り空、東風。昨日まで一緒だった者達に見送られ、十時過ぎに錨を上げた。五時頃に佐賀の関を通過した。十二時過ぎに波風が立ち始め、雨模様となった。記、昨夜、秋山周作が九州から戻ってきて、松方と鳥尾の手紙を持参すると共に、九州の近情について大まかなところを伝えてくれた。遠田甚助と池良からの手紙も届いた。『二つ岩の狭間の竹林』と題された張秋谷の掛け軸を入手した。五岳にインドの墨画を贈られた。」
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張秋谷、後に張秋穀と名を改めたこの画家は中国生まれなのだが、十八世紀に長崎に来舶し南宗画を日本に伝えた『来舶四大家』の一人だ。職業的画工が仕事で描くのではなく、知識人が余技として描くことを主とした南宗画は私の理想でもあり、これを機に蒐集できたのは僥倖であった
明治四年五月十三日 (1871/6/30)
「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの...
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「雪舞うこと花咲くが如く。ここ十七年のうちでも一番に寒い冬だ。十二時に、両公が勅使の滞在している旅館で晩餐会を開かれ、私も参席した。三時頃に廣澤の家に行き、次に湯田で大久保に会い、九時過ぎに宿に戻った。来客が引っ切り無しで非常に忙しかった。」
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「晴れ。内海と他の者達が訪ねて来た。私は二時過ぎまで布団の中で過ごした後、諸氏と散歩に行き、歯科医のエリオット先生を訪ね、その後プロイセン公使を訪ねた。公使とケンパーマンには長州公からの贈り物である漆器と縮緬をお渡しした。今日はプロイセン皇帝の誕生日だそうで、また戦勝記念日でもあ...
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「晴れ。朝から各所より来客あり。近頃、湯治に来ている肥後の人間が一二名も話をしに来た。十一時過ぎに杉を訪ね、一緒に政廟に出仕、血気盛んな若者達の問題について議論した。五時に退出し、湯田で岩倉卿との謁見し、大久保と会った。帰り道に西郷を始めとした今回山口城に入城した人々を訪ねた。皆...

