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2021/04/08

明治四年二月十九日 (1871/4/8)

 「晴れ。十時に参朝。福島県で頑迷な人民達による蜂起が起きたと聞く。元より兵部省は、越・奥羽に軍隊を派遣しておくことを提案していたのだが、今日もこの議論が再燃した。三時に退出、神田邸に行き長府の三吉慎蔵と会い、知事公の御学問について議論した。その後約束していた通り後藤を訪ね、これに板垣退助も加わり、一緒に飲み語った。十一時に別れた。」

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福島県川俣付近で起きたこのような農民騒動は、明治初期には日常茶飯事の出来事であった。凶作で年貢の納入が難しかったところに、催促厳重が極めたのが原因だとされている。厳密な数は分からないが五百人近くの集まりが官邸を襲撃し、打ち壊しや放火をしたというのだからたまったものではない。この事件後には三十人近くが捕らえられ、絞首や杖刑に処された。これが明治六年以降になると、蜂起の動機も経済的なものから政治的なものに変わり、士族達による反乱の方が増えることになる。兎に角明治最初の十年は安定とは程遠く、多くの血が流れた。我々新政府重鎮達の心労も、察してほしい……

2021/03/28

明治四年二月八日 (1871/3/28)

「晴れ。山縣素狂(有朋)が訪ねて来た。岩倉大納言もお越しになられた。後藤象二郎も話をしに来た。四時に三条公の邸宅に向かうと、板垣退助、杉孫七郎、西郷吉之助、大久保参議が同席しており、我々は三藩に関する提案を建言した。時勢の変遷、世論の有様を考えている内に、私の心中にある悲嘆の気持ちが大きくなりすぎ、遂には今日の情勢に対する私の意見を論じ、不覚にも涙を流してしまった。六時に退出、杉と同じ馬車で帰った。」

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今こうして日記を読み返してみると、私は本当に良く泣くな……大久保は何も言わないが呆れた顔をするので、彼の前ではあまり泣きたくないのだが、一度想いが溢れてしまうと、もはや自分では制御できないのだから仕方がないだろう……

2021/03/19

明治四年一月二十九日 (1871/3/19)

「晴れ。朝、県知事の中山が来た。大西郷も来た。板垣大参事も来た。小川からの手紙が届いた。プロイセン人に贈り物を頂いた。山田の手紙も届いた。小川大属と吉井民部大丞宛に手紙を出した。山縣素狂(有朋)が話しに来た。昨日ニューヨーク号が港に着き、今日四時に出発。昨夜、林少丞が会いに来て、私の護衛に兵部省が派遣した十人の兵隊達がこの船に乗って横浜からやって来たと伝えてくれた。参議をこれ程までに重んじるのは宜しくないと、私はこの朝令を頑なに断ろうとしたが、最終的には受け入れざるを得なかった。四時に乗艦、五時過ぎに錨を上げた。」

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倒幕佐幕関係なく、暗殺が日常茶飯事であった幕末の動乱期を生き抜いた我々からすると、物々しい護衛達に囲まれて過ごすのは若干見苦しい、というのが私の本心であった。これは西郷や大久保も同じ考えであったようで、人は常に護衛をつけるよう彼等に忠告し、時には無理やり付いて回っていたが、彼等自身はこれを不要と考えていた。大久保などは内務卿になった後ですら大した護衛をつけておらず、それが原因で遭難することになったわけだが、私が彼でも同じことをしたであろう

2021/03/11

明治四年一月二十一日 (1871/3/11)

「晴れ。九時頃に高知を発つ。川を湾に向かう舟で下っていると、私に会いに来る途中であった板垣と鉢合わせになった。私は舟の上から、彼は橋の上で下馬し、次は浪華で会うことを約束し別れた。浦戸までの川からの景色は素晴らしいもので、天気にも恵まれていた。十一時前に雲揚艦に乗ると、大久保と西郷もすぐに来た。藩廟から数百の鶏卵の土産を頂戴した。……を五時頃に通過。今日は波風も穏やかであったのだが、ここに来て船は激しく揺れ、北東から吹き始めた風も強くなる一方であった。八時頃に風も落ち着き、五時頃に由良に到着。」

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雲揚艦は元々長州藩が維新の前にイギリスに発注した軍艦で、この数か月後に明治政府海軍に献納され、その後は海外からの賓客を迎えるのに使われたり、佐賀の乱や江華島事件で活躍したが、明治九年、残念ながら萩の乱の最中に暴風雨に遭遇し破壊されてしまった



2021/03/10

明治四年一月二十日 (1871/3/10)

「曇り。西郷が訪ねて来た。私は一行と共に、板垣、福岡、下村に会いに藩廟へと向かった。……の案内で、我々は騎兵寮屯兵所と調練所での調練を見聞した。雨が降り始めたので、三時頃に宿に戻る。西郷とは門前で別れ、大久保を訪ねた。福岡が私を訪ねて来たが、私は不在だったので、彼は大久保の所まで来て、昨日の提案を支持する決断が下されたと報告した。昨日、知事公(山内豊範)に和紙と鰹節の贈り物を頂戴した。」

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土佐和紙は平安時代に遡るほど由緒正しく、他の和紙より薄いのに丈夫だという素晴らしい特性を持った逸品だ。書道は勿論のこと、貝合わせや人形と言った工芸品、更には紙衣や弁当箱まで作れてしまうというのだから驚きだ。今では世界中で、美術品や文化財の修復にも使われているらしい



2021/03/09

明治四年一月十九日 (1871/3/9)

「晴れ。杉と宮城が来たので、一緒に城下町を散歩した。街中では若者たちが群れをなし、凧の尾を竹竿で争い奪っているのを見かけた。この地域の習慣では、男子が生まれた家庭は凧を飛ばし、人々がその尾を争い奪うのだと聞かされた。長いものは五、六十丈ほどの尾の凧もあった。帰り際に杉の宿に寄り、昼寝をした。六時頃に板垣、福岡と下村が会合用の場を設け、大久保、西郷と私を招待した。西郷を始めとして、我々はこの旅の主目的を語り、次いで板垣が藩事情について説明し、この地の人々は朝家に尽力する意思で結束していると主張した。故に、彼は知事公に今宵の会合について報告し、明日までには確固たる返事を返すと約束した。その後、我々は酒を飲みつつ時事を議論し、十一時頃に解散。公式の話の後には、他の大属や役人達も酒席に加わった。」

2021/03/08

明治四年一月十八日 (1871/3/8)

 「曇り後雨。大久保と西郷が訪ねて来た。その前に板垣退助が来たので、私は彼に今回の旅の目的の大略を伝えた。彼とは三年来の付き合いで、昨年から頻繁に会っている。彼は時勢をよく理解しており、皇国の前途を見据えている。彼が藩政改革で作った実績は見事だ。諸藩が同様に奮っていないのは残念なことだ。私が今回の件について自説を唱えると、彼は一つの疑問もなく直ちに快諾した。彼は昨年からこの藩の大参事を務めている。下村珪太郎が訪ねて来て、私は明日大久保と西郷と共に会合に参加することを約束し、その後大久保と西郷を訪ねた。四時頃に、杉と宮城が私に会いに来た。今夜は、板垣大参事・福岡権大参事・下村小参事が訪ねてきて、藩政改革の件についてなどを議論した。宮城はこの改革について見聞する為にこの旅に付いて来たのだ。我々は酒を飲みつつ話をし、十二時過ぎに解散した。」

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板垣退助。彼との仲は若気の至りと言うか、一時の気の迷い(?)と言うか……大久保と仲違いした時には反動から、良く私の話を聞いてくれる彼と仲良くなったりしたのだが、実際同盟を結んでみると、実は余り深く考えてない所があったり他の変な連中が付いて来たとかで、少し苦労したものだ……



明治四年五月十三日 (1871/6/30)

「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの...