ラベル 遠田甚助 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 遠田甚助 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2021/06/08

明治四年四月二十一日 (1871/6/8)

 「雨。今朝、大吉が帰ったので、彼に八谷藤太宛の手紙を託した。ついでに野村素介宛の手紙と、遠田甚助宛の手紙も一通ずつ預けた。三田尻の山根健蔵が訪ねて来た。夕方、陶器を買いに三ノ瀬まで散歩し、六時前に宿に戻った。中野十一が見舞いに来て、兄源蔵からの手紙を届けてくれた。源蔵が言うには、寛二郎の母親が子を手放すのに反対しており困っていると書かれていた。」

2021/05/19

明治四年四月一日 (1871/5/19)

「晴れ。旧友、難波傳兵衛が恩師の清水清太郎を連れて来た(先代の清太郎は私の無二の友で、1864年の折に切腹で果てたのであった。この清太郎は備中の人間で、長左衛門宗春の血統との話だ。阿対馬人……が来た。そして、片山治右衛門、小野為八と吉……が話しに来た。十時に竹田祐伯を訪ね、その後青木群平の所に寄ってから、二時頃に出仕。御老公の正式な忌日をいつに定めるかを議論した。後世まで間違った日付が伝えられることは避けねばならない。三時過ぎに御謁見所で棺を拝んだ。屋敷全体が沈んだ空気に覆われており、私自身も氷のような寒気を感じていた。退出後、明倫館に赴き山田を訪ねたが、不在であった。七時前に帰宅。八谷藤太、遠田甚助に手紙を出した。」

2021/05/12

明治四年三月二十三日 (1871/5/12)

「雨。斎藤栄蔵が来た。吉春も話しに来た……彼は佐畑の父だ。二時頃に久保が来て、昨日の評決の経済面について山縣が不服に思っていると教えてくれた。私はこの一件について目的を成就することが出来なくなることを恐れ、もう一度評議を開きたいと考え、野村の所へと向かった。不在であったので、一筆書き残しておいた。山田の所に行ったが不在で、また山縣の所も試したが同じく不在であった。六時過ぎに帰宅。今夜は片山一家と大津翁が訪ねて来た。夜、野村からの手紙が届いたので、すぐに返事を返した。記、遠田甚助に手紙を出した。野村の手紙の中には、群用局設立の案が今日認可されたと書かれていた。これは先日、私が建言していた提案で、政府と人々の間のやり取りを改善するためのものだ」

=========

実を言うと、事前に訪問する約束を取り付けずに人を訪ねるのは私の趣味のようなものだ。私の立場柄、事前に約束をすると、多くの人々を構えさせてしまい、率直な意見を聞けないこともあるのだ。とは言え、この日の様に三件訪ねて全て不在だと流石に気落ちしてしまう……

明治四年五月十三日 (1871/6/30)

「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの...