「曇り後雨。杉が話しに来たので、藩の抱えている問題数件について議論した。これには子供の居ない御老人達、武士達のための土地、地下役人達の件等々が含まれていた。十一時頃、忠正公の墓参りに向かった。帰り際に高杉家に寄ってから帰宅。井上世外を訪ね、政府の資金繰りについて議論した。記、岡義右衛門と岡竹之進が泊りに来た。」
2021/06/20
2021/06/19
明治四年五月二日 (1871/6/19)
「晴れ。井上世外が話しに来た。大津と小澤も来た。その後客館に行き、勅使堀川殿に謁見、三条岩倉両公からの伝言を直にお伝え頂いた。私は当藩の内情についてご報告差し上げた。退出後、杉を訪ねたが不在であった。忠正公(毛利敬親)の御墓参りをしてから藩廟に出仕、陸軍局の一件についての会議に参加した。三時過ぎに退出。福原内蔵之丞が訪ねて来た。夜、片山の所に向かい、その後坪井惣右衛門の所で山縣、井上、正木と会った。今夜は中村屋に宿泊。片山が話しに来た。」
2021/06/18
明治四年五月一日 (1871/6/18)
「今日、道中で杉権大事からの緊急の手紙を受け取った。三条公岩倉両公の命により、長松少辨が日田へと派遣されるという。晴れ。来客で賑わっていた。十一時頃に出立。岡義右エ門の案内で、七八人の付き添いと共に矢島半平宅へ向かう。二時頃にそこを発ち、八時前に山口に到着。久保と柏村を訪ね、片山の所で山縣、正木、坪井、井上に会った。中村屋に宿泊。今日、井上世外(馨)から三条公の手紙を受け取った。勅使の堀川卿がお持ちになられたらしい。記、吉富簡一と平岡平吉からの手紙も届いた。」
2021/06/02
明治四年四月十五日 (1871/6/2)
「曇り。松と正二郎は今朝から深川に滞在。福原太郎兵衛と大津四郎右衛門が来訪。八時頃に出仕、諸参事達と幾つかの案件を打ち合わせ、また大久保参議、山縣兵部少輔、山尾工部大丞宛に手紙を認めた。糸賀と地方政府や徴兵制の件について議論。二時に帰宅。すぐに出発の準備を整え、三時過ぎに出発。湯田で山田市之丞(顕義)と話し、別れを告げてから井上世外(馨)を訪ね、田中歳助を東京に送り出す案について話した。それから小郡に向かい、私を待っていた北川清介と重見二郎兵衛と合流。小泉屋で小休憩し、十二時過ぎに舟木に到着、大庭の所に泊まった。三時前に雨が降り始めた。記、今日、布令係の一件が決定された。」
2021/05/31
明治四年四月十三日 (1871/5/31)
「晴れ。三輪惣兵衛の所で岡に会い、そこから忠正公(敬親)の墓参りに向かった。杉を訪ね、小澤を訪ね、そこで予期せず井上世外(馨)に会った。世外は今日山口に着いたらしく、東京の近情と、三条岩倉両卿からの『直ちに東京へと戻るように』との指示を伝えてくれた。六時過ぎに帰宅。同じく山口に戻っていた三浦梧楼からの手紙が届いた。福井順道と杉山耕太郎からの手紙も届いた。夜、草刈が来て泊っていった。」
==========
三輪惣兵衛は醤油の醸造や質を営んでいた山口の豪商の一人で、よく他藩からの客人を泊める家として使われていた。幕末には坂本龍馬、明治になってからも大久保や西郷従道と言った人々が泊ったことがあり、廣澤や私も良く訪れたものだ。
2021/04/17
明治四年二月二十八日 (1871/4/17)
「雨。骨董屋の大吉、播吉、山中屋が来た。今回蒐集したのは古銅の釣瓶、古銅の香炉、古染付の花瓶、小切二枚を合わせた山湯高濱の掛け軸であった。世外(井上馨)と素狂(山縣有朋)に手紙を書いた。吉井源馬と山田市之丞(顕義)が来た。宗像宗十郎と大岡大眉も来訪。四時前に藩邸前から舟に乗り松島へ、そこから神戸行きの川蒸気に乗り込んだ。六時に到着し、布引屋に一泊。」
==========
書道と酒宴と花見を除けば、骨董品の蒐集は私の一番の趣味と言っても良い。この時の出張でも、中々素晴らしい品々を集めることが出来た。『もう置くところがないんだから少しは控えてください』と松は言うが、骨董品は集めるも楽し、眺めるも楽し、また人に上げるのにでも便利ということで止め難い。
ちなみにこの日私を訪ねてきた骨董屋のひとつ山中屋は、入り婿である山中定次郎の手により山中商会として明治後半に躍進する。明治二十八年(1895年)、誰よりも一早くニューヨークで店舗を開いた彼は、その後もボストン・ロンドン・パリと矢次早に出店し、欧米の日本ブームを捉えることに成功した。あのメトロポリタン美術館も『我々が二十世紀初頭に素晴らしい日本のコレクションを築くことが出来たのは、ひとえにYamanaka & Coのおかげだ』と言っているぐらいだ。山中商会はその後、第二次世界大戦のせいで在外資産を凍結され、店舗も閉鎖されたが、商会自体は未だに存続している
2021/04/13
明治四年二月二十四日 (1871/4/13)
「曇り後雨。宍戸、山縣、井上、その他の客人達は昨夜、我が家に泊まっていった。家は活気に溢れ、私の門出を見送る客で一杯であった。十時前に出発、外務省門前に至り、外務省の馬車に乗り換え、二時頃に横浜の山城屋に到着。シュミットが正二郎を連れて来て、そこで我々は数刻会話した。浜田県の佐藤県知事と白根多助に会い、大隈に佐藤を紹介する手紙を書いた。豊原……が訪ねて来た。彼は正二郎と共に洋行する命を受けており、それで私が正二郎と共に帰郷するのを引き止めるようにとの井上世外(馨)からの言伝を伝えに来たのであった。しかし正二郎は病がちであり、今暫し保養するのが良しと私は判断し、結局彼を一緒に連れていくことにした。四時に山城屋を発ち、豊原を訪ねた。更にシュミットを訪ねる予定であったが、その道すがら彼と鉢合わせになり、彼は我々を見送りに船まで付いて来た。正二郎と別れる時のシュミットの悲しみは深く、激しく涙を流していた。私にも彼の気持ちは良く分かり、つられ泣きしてしまった。五時に錨を上げた。今回の船名はゴールデン・エイジ(黄金時代)だ。記、杉、野村、三好と徳山の遠藤貞一郎が同船していた。乗艦時に激しい降雨。」
==========
シュミットは英国大使一行の通訳の一人だ。彼とは正二郎と私が箱根に滞在していた際に会い、少し話す機会があったのだが、その折に正二郎の賢明さに感心したシュミットが、正二郎を彼と一緒に住まわせ英語を学ばせましょうと提案してきたのであった。突然の申し出で面食らったものだが、話してみるとシュミットは信頼に足る人物であるようであったので(私は人を見る目はあるのだ)、これからの時代は英語が非常に大切であるということも踏まえ、私は正二郎を彼に一年預けることにしたのであった
2021/04/03
明治四年二月十四日 (1871/4/3)
「晴れ。山縣狂介(有朋)、宍戸三、藤井勉が話しに来た。昨夜、世外(井上馨)が岩倉卿の伝言を手紙で書き送ってくれ、今朝もう一通が届いた。その主意は私が参朝するようにと勧めるものであった。なんでも岩倉卿と辨官一同が今日私に相談しに自宅までお越しになられるつもりだという話であったので、私は病をおして参朝した。三時過ぎに退出。その後、神田邸に向かい豊浦と岩国の両知事公に御挨拶をした。野村と藤井を見かけ、暫く山口藩の状況について議論した。それから薩摩藩邸に向かい、西郷と会い別れの挨拶をした。世外(井上馨)も訪ね、井田五臓、太田里一、亥和太と会った。更に、井上小豊後を訪ねたが、病がぶり返してきたので、そのまま帰宅。既に六時近くであった。世外宅で、杉、野村、宍戸にも会った。深夜に地震。ここのところ地震が多かったが、今日のは特に強烈であった。記、後藤からの手紙が届いた」
2021/04/01
明治四年二月十二日 (1871/4/1)
「晴れ。遡ること二月十日の夜、私は一人静かに回想していた。三条公の邸宅、西郷や他の者達が同席していたあの朝、私は未だに根強く残っている従来からのやり方の弊害に対する警告を論じるのに熱くなりすぎてしまった。今思うと少し恥ずかしく、そこで朝の三時であったにも関わらず、岩倉卿宛に手紙をしたためた。今朝、井上世外(馨)が岩倉卿の伝言を伝えにきたので、私はあの手紙の中で表すことの出来なかったことを陳述した。西郷吉之助が訪ねて来て、互いの藩の事情と国家の情勢について議論し、朝廷の現状にも話が及んだ。山縣素狂(有朋)も話しに来た。」
==========
どうも私は感情的になりすぎるふしがあり、言ってしまった後、やってしまった後で後悔することが少なくなかった……このツイッターも、リアルタイムではなく何日分か予め登録しておくことで、書いたら悔いてしまうことは書かないようにしている。便利な世になったものだ
2021/01/30
明治三年十二月十日 (1871/1/30)
「晴れ。山縣と鳥尾が来た。十二時過ぎに、井上世外(馨)を訪ね川を渡った。彌吉(勝)も同行した。六時過ぎに大久保を訪ねたが、不在。そこから長州藩邸に移動し、一晩を過ごした。」
2021/01/22
明治三年十二月二日 (1871/1/22)
「曇り。昨朝から私を探していた井上世外(馨)、山田顕義、山縣素狂(有朋)が、ようやく堺辰楼で私と落ち合い、一緒に京久楼に向かった。鳥尾と河野も参加。二時過ぎに井上世外と富田楼に行くと、土佐の岩崎某(弥太郎)、高野兵部少丞と、馬渡某はもう来ていた。」
==========
岩崎弥太郎はこの当時、設立して一年ほどしか経っていない九十九商会の経営に関わっていた。土佐藩の連中が作った商会で、主に藩から払い下げられた三隻の船による海運業を営んでいたわけだ。これが後の三菱商会だ。それもあり、晩年は聞多と頗る仲が悪かったと聞いている
2020/12/27
明治三年十一月六日 (1870/12/27)
「晴れ。朝廣澤を訪ね、十二時前に帰宅。長安と川瀬が訪ねて来た。一時過ぎに馬車で築地に向かい、その道すがら毛利恭助、吉井源馬、田中顕助、井上世外(馨)に出くわした。後で賣茶楼で落ち合う約束をしてから、柳原卿を訪ね、その後平岡平吉を訪ねた。会話の途中で、我が長州公の弟君……氏がまだ大島郡……に暮らしていると聞いた。五時に席を辞し、賣茶に向かい、八時に帰宅。伊勢小淞と杉猿村から手紙が届いた。倉敷権大参事……が私の不在中に訪ねて来たようであった。」
==========
田中君は幕末の動乱を生き抜いた人物としてはかなり長命で1939年まで生きた。浮き沈みの大きい人生ではあったが、晩年には零落した志士の遺族達の庇護、遺品や資料の保存に力を尽くしてくれた。土佐生まれにも関わらず東行の弟子を名乗っており、東行詩集の出版も全て彼のお陰だ。
2020/12/24
明治三年十一月三日 (1870/12/24)
「晴れ。九時に参朝、四時に退出。井上世外(馨)が話をしに来て、泊っていった。記、井上省三がケンパーマンからの伝言を届けに来た。」
==========
この日の門多は、また性懲りもなく私のお気に入りの茶碗を『クリスマスプレゼント下さい』とか言って所望したのであった。あいつは面倒見の良い好漢だが、時に蒐集熱が過ぎるのが玉に瑕だ。
明治四年五月十三日 (1871/6/30)
「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの...
-
「雪舞うこと花咲くが如く。ここ十七年のうちでも一番に寒い冬だ。十二時に、両公が勅使の滞在している旅館で晩餐会を開かれ、私も参席した。三時頃に廣澤の家に行き、次に湯田で大久保に会い、九時過ぎに宿に戻った。来客が引っ切り無しで非常に忙しかった。」
-
「晴れ。内海と他の者達が訪ねて来た。私は二時過ぎまで布団の中で過ごした後、諸氏と散歩に行き、歯科医のエリオット先生を訪ね、その後プロイセン公使を訪ねた。公使とケンパーマンには長州公からの贈り物である漆器と縮緬をお渡しした。今日はプロイセン皇帝の誕生日だそうで、また戦勝記念日でもあ...
-
「晴れ。朝から各所より来客あり。近頃、湯治に来ている肥後の人間が一二名も話をしに来た。十一時過ぎに杉を訪ね、一緒に政廟に出仕、血気盛んな若者達の問題について議論した。五時に退出し、湯田で岩倉卿との謁見し、大久保と会った。帰り道に西郷を始めとした今回山口城に入城した人々を訪ねた。皆...



