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2021/06/22

明治四年五月五日 (1871/6/22)

「晴れ後曇り。酷い暑さだ。十一時頃に忠正公の墓参り、次いで長屋藤兵衛を訪ねた。杉猿村も訪ね、帰り際に片山の所に寄ってから七時頃に帰宅。」

2021/06/18

明治四年五月一日 (1871/6/18)

 「今日、道中で杉権大事からの緊急の手紙を受け取った。三条公岩倉両公の命により、長松少辨が日田へと派遣されるという。晴れ。来客で賑わっていた。十一時頃に出立。岡義右エ門の案内で、七八人の付き添いと共に矢島半平宅へ向かう。二時頃にそこを発ち、八時前に山口に到着。久保と柏村を訪ね、片山の所で山縣、正木、坪井、井上に会った。中村屋に宿泊。今日、井上世外(馨)から三条公の手紙を受け取った。勅使の堀川卿がお持ちになられたらしい。記、吉富簡一と平岡平吉からの手紙も届いた。」

2021/06/13

明治四年四月二十六日 (1871/6/13)

「曇り。山根秀輔の返事が届いた。杉孫七郎、三好軍太郎、曽根某からの手紙が届いた。磯部吉蔵が来訪。和田久七と山本七右衛門も訪ねて来た。夕方に、宮口、山根、藤本と共に河野庄七の茶会に参加した。秋元……の手配であった。夜、友人達が数名話しに来た。記、渋木の訂心寺の欽玄が訪ねて来た。彼は現在大寧寺に滞在している。夜、山本からの使いが来たが、七右衛門とは行き違いになってしまった。七右衛門の御老母が、彼の不在中にお亡くなりになってしまったのことであった。なんとも哀れな話だ。」

2021/05/31

明治四年四月十三日 (1871/5/31)

「晴れ。三輪惣兵衛の所で岡に会い、そこから忠正公(敬親)の墓参りに向かった。杉を訪ね、小澤を訪ね、そこで予期せず井上世外(馨)に会った。世外は今日山口に着いたらしく、東京の近情と、三条岩倉両卿からの『直ちに東京へと戻るように』との指示を伝えてくれた。六時過ぎに帰宅。同じく山口に戻っていた三浦梧楼からの手紙が届いた。福井順道と杉山耕太郎からの手紙も届いた。夜、草刈が来て泊っていった。」

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三輪惣兵衛は醤油の醸造や質を営んでいた山口の豪商の一人で、よく他藩からの客人を泊める家として使われていた。幕末には坂本龍馬、明治になってからも大久保や西郷従道と言った人々が泊ったことがあり、廣澤や私も良く訪れたものだ。

2021/05/20

明治四年四月二日 (1871/5/20)

「刺賀佐兵衛、岡義右衛門、宍戸……、内藤次郎、……と長府の三好周亮が訪ねて来た。山田市之丞(顕義)が、元会津人の日下一郎を連れて来た。日下は先日久留米のあたりで九州の近情を調査してきたばかりで、難波を経由して山口に戻って来たところであった。私は彼にもう一度日田に行ってもらいたいと思っている。李家文厚、三好軍太郎、岩岡安田……が来て、前途諸事について議論した。十一時頃、藩廟に出仕、退出時に長府の三好を訪ねたが不在。次に、萬代屋と片山屋に行き、山縣と杉と話した。三月二十一日(5/10)付けの三条岩倉両卿からの手紙が届いた。その中には最近の東京での出来事やご決断について書かれており、わたしはこの手紙を通じて東京の近情をよく理解した。今夜、中村屋に泊まりに行った。」

2021/04/27

明治四年三月八日 (1871/4/27)

 「雨。連日の雨でじっとりとしている。この七日間、一日として晴れるのを見ていない。大津、野村、山田、その他来客が絶えなかった。十一時過ぎに藩廟に向かい、退出する際に小幡を訪ねたが不在であった。宿に戻ると、山縣、小幡、杉が話をしに来た。酒を飲みつつ談笑していると、山田、木梨、野村、中村、三好、杉山も来て、軍の問題について談じた。私は山田と現状について議論を交わした。まず五時過ぎに山田と一部の客が去り、六時過ぎに山縣と残りの客が去った。」

2021/04/26

明治四年三月七日 (1871/4/26)

 「雨。岩倉卿、山縣兵部大輔、三浦兵部小丞、佐畑謙助、斎藤新太郎、山尾工部大丞、内海神奈川大参事宛に手紙を出した。神戸の長門屋を通じて届けるようにと、これらの手紙を杉富之進に託した。十二時に杉を訪ね、その後青木の所へ行き、それから山田に会った。その後湯田に行き温泉に浸かり、三好、野村、中村、杉山、田中と二三杯飲み交わした。山田と殿川と一緒に歩き、七時過ぎに宿に戻った。それから山縣のところへ行った。」

2021/04/09

明治四年二月二十日 (1871/4/9)

 「晴れ。野村素助と藤井勉三が話しに来た。三隅市之進が来た。三隅は善良で将来有望な若者だ。私はだからここ一年、洋行したいという志を持つ彼の手助けをしてきた。それが此度、彼が民部省によって、米国に農業を学びに行く一人に選ばれたので、私は彼と諸事を打ち合わせた。大久保と山縣に手紙を出した。大久保の返答には、岩倉卿との会合の内容が書かれており、それを元に私は岩倉卿の所へ向かい数刻議論した。久留米と福島両方からの報告があり、どちらの場合でも浮浪の徒が暴動を扇動していたとのことであった。杉猿村(孫七郎)が来た。岩国の知事御兄弟も来られた。五時過ぎには容堂公もお出ましになられ、我々は酒を飲みつつ雑談した。十二時に解散。」

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容堂公とは藩も違えば年も出自も違っていたが、なぜか非常に馬が合い、良く会っては酒を飲み交わしたものだ(私も大分いける口だが、容堂公は私が下戸に見えるほどに酒好きであった)身分の低かった者達が実権を握ることになった新政府のことは余り好いておらず批判的で、また和服以外も着ようとはされなかった。だが時勢と言うものは良く理解しておられ、例え泥酔し気勢を上げ現状を憂いても、版籍奉還や廃藩置県と言った肝心な事柄については協力的であられた



2021/04/05

明治四年二月十六日 (1871/4/5)

 「曇り。二三件、内密の件ついて相談するために、岩倉卿がお越しになられた。杉猿邨(孫七郎)が来た。米田と安場の両大参事も来た。山縣素狂(有朋)も話しに来た。時田少輔、三吉慎蔵、長親兵衛も来た。一時過ぎに、四藩建言の進捗状況を相談に大久保参議を訪ねた。その後、杉に会いに神田邸に向かい、四藩建言について大久保と議論したと報告し、我が藩での布告についてや、因幡と備州関係について等を議論した。帰り道に、宍戸刑部少輔を訪ね、六時過ぎに帰宅。夜、杉山と山縣と話し、此度の新聞局開局における私の意図を語った。遠境の人々にも、諸藩で行われている、広くは世界で起きている改革について広く知らしめ、時勢近情について理解を深め、開化を促したいのだ。福井も同席していて、会話に参加した。今日、神田邸から寺内真一を家まで連れて来た。」

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この年刊行された『新聞雑誌』や、『東京日日新聞』(後の毎日新聞)からも分かる通り、私は文明開化における新聞の重要性をよく理解しており、その普及を積極的に後押ししていた。だが政府に好意的な御用新聞が主流であったのは、明治でも僅か最初の数年だけの話で、自由民権運動が盛んになった明治七年以降は政府批判が目立つ新聞も多く出回り始め、政府は言論統制を始めなくてはならなかった。言論の自由と言った概念は、当時上り調子であったアメリカ合衆国でも良く叫ばれたものだが、明治初期の不安定な時代、誰しもが新政府に不満を抱いていた時代には劇薬以外の何物でもなかった……



2021/03/28

明治四年二月八日 (1871/3/28)

「晴れ。山縣素狂(有朋)が訪ねて来た。岩倉大納言もお越しになられた。後藤象二郎も話をしに来た。四時に三条公の邸宅に向かうと、板垣退助、杉孫七郎、西郷吉之助、大久保参議が同席しており、我々は三藩に関する提案を建言した。時勢の変遷、世論の有様を考えている内に、私の心中にある悲嘆の気持ちが大きくなりすぎ、遂には今日の情勢に対する私の意見を論じ、不覚にも涙を流してしまった。六時に退出、杉と同じ馬車で帰った。」

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今こうして日記を読み返してみると、私は本当に良く泣くな……大久保は何も言わないが呆れた顔をするので、彼の前ではあまり泣きたくないのだが、一度想いが溢れてしまうと、もはや自分では制御できないのだから仕方がないだろう……

2021/03/09

明治四年一月十九日 (1871/3/9)

「晴れ。杉と宮城が来たので、一緒に城下町を散歩した。街中では若者たちが群れをなし、凧の尾を竹竿で争い奪っているのを見かけた。この地域の習慣では、男子が生まれた家庭は凧を飛ばし、人々がその尾を争い奪うのだと聞かされた。長いものは五、六十丈ほどの尾の凧もあった。帰り際に杉の宿に寄り、昼寝をした。六時頃に板垣、福岡と下村が会合用の場を設け、大久保、西郷と私を招待した。西郷を始めとして、我々はこの旅の主目的を語り、次いで板垣が藩事情について説明し、この地の人々は朝家に尽力する意思で結束していると主張した。故に、彼は知事公に今宵の会合について報告し、明日までには確固たる返事を返すと約束した。その後、我々は酒を飲みつつ時事を議論し、十一時頃に解散。公式の話の後には、他の大属や役人達も酒席に加わった。」

2021/03/08

明治四年一月十八日 (1871/3/8)

 「曇り後雨。大久保と西郷が訪ねて来た。その前に板垣退助が来たので、私は彼に今回の旅の目的の大略を伝えた。彼とは三年来の付き合いで、昨年から頻繁に会っている。彼は時勢をよく理解しており、皇国の前途を見据えている。彼が藩政改革で作った実績は見事だ。諸藩が同様に奮っていないのは残念なことだ。私が今回の件について自説を唱えると、彼は一つの疑問もなく直ちに快諾した。彼は昨年からこの藩の大参事を務めている。下村珪太郎が訪ねて来て、私は明日大久保と西郷と共に会合に参加することを約束し、その後大久保と西郷を訪ねた。四時頃に、杉と宮城が私に会いに来た。今夜は、板垣大参事・福岡権大参事・下村小参事が訪ねてきて、藩政改革の件についてなどを議論した。宮城はこの改革について見聞する為にこの旅に付いて来たのだ。我々は酒を飲みつつ話をし、十二時過ぎに解散した。」

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板垣退助。彼との仲は若気の至りと言うか、一時の気の迷い(?)と言うか……大久保と仲違いした時には反動から、良く私の話を聞いてくれる彼と仲良くなったりしたのだが、実際同盟を結んでみると、実は余り深く考えてない所があったり他の変な連中が付いて来たとかで、少し苦労したものだ……



2021/03/02

明治四年一月十二日 (1871/3/2)

「晴れ。朝から各所より来客あり。近頃、湯治に来ている肥後の人間が一二名も話をしに来た。十一時過ぎに杉を訪ね、一緒に政廟に出仕、血気盛んな若者達の問題について議論した。五時に退出し、湯田で岩倉卿との謁見し、大久保と会った。帰り道に西郷を始めとした今回山口城に入城した人々を訪ねた。皆、明日出立の予定だ。大久保は一人、明後日に発つ予定だが。九時に宿に戻ると、私の部屋は山のような来客で溢れていた」

2021/03/01

明治四年一月十一日 (1871/3/1)

「晴れ。今宵、岩倉卿が両公をお訪ねになり、私も同席した。終日、来客絶えず。今夜は山縣狂介(有朋)の家で人々と話した。久保や杉が居た。記、今日、奥平二水(数馬)が萩に帰ってきた。」

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杉や奥平の様に風流な友人達はかけがえのない宝物だ。一年前に私が萩に戻っていた時も、我々は秘密の会合を開き、一興としてこの火鉢に寄せ書きをしたのであった。私が石を、杉が竹を、奥平が山茶花を、宍戸が梅を描き、野村が詩を書いたのだ。名作ではないかね?



2021/02/23

明治四年一月五日 (1871/2/23)

「晴れ。新築地を散歩し、御船蔵の中を通り、伊木見に向かった。藤松多之助が訪ねて来た。梶取、同町等も来た。終日、杉、坪井、貞永が私に同行した。今日は、肥後熊本藩の湯治一が訪ねて来た。岩倉卿と彼の一行が我が藩に到着したため、会いに来たとのことであった。杉と私は相談しに宿の山城屋に向かった。」

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御船蔵は慶長以来の毛利家の水軍基地で、東行が文治元年(1864年)に決起した折に、二十人弱の手勢と共に襲撃し、無血で軍艦を奪取したのもここの話だ(今はもう埋め立てられており見る影もないが)。私はその後、大村に請われ但馬出石での隠遁生活を終え、長州藩の指導者的位置に据えられたのであった……



2021/02/19

明治四年一月一日 (1871/2/19)

 「空晴れ渡り、空気は新鮮で、新年の寒さは骨身に堪えた。一面の雪は陽の光を映し、絶妙な光景を生み出していた。貞永の一家が集まり、藤松と私が加わり、皆でお屠蘇の盃を傾けた。猿村(杉孫七郎)と私はそれぞれ揮毫と水墨画を試み、それから新年祝いの一品を合作で書き上げた。『屋根高く雪は朝日を映し出している。今年初の東風が吹き、開け放たれた扉からこの目に映る素晴らしい景色 ― 海、山、川 ― 全ては大君のお陰だ』正午になると軍艦が祝砲を放ち、私は友人達と共に藤松多之助の所に向かった。十七年前、伊勢小淞と浪華に向かう道中、我々は強風に拒まれ、三田尻に数日滞在せねばならなかった。あの時、伊勢に誘われ、私は初めて藤松の所に行ったのであった。我等の国は、当時平穏なものであった。これだけの月日が過ぎた今、今日またこうして宴を開けるとは、人の一生とは予想できぬものだ。我々は過去を想い悲しんだが、同時に幸せでもあった。友人達と飲み、語り、私はここ数年新年に感じたことのない閑静を感じることが出来た。殊更堪える寒気を感じ窓を開けてみれば、空には雪の欠片が浮かび、庭の竹をに積もったそれはまるで花が咲いているかのように見えた。私はその場でこう吟じた。『短い竹の杖を手に、私は友の家を訪ねる。陽の光が冷たい雪の上に影を落とす。お屠蘇を飲み終える前には、庭の竹は突如咲き誇っていた』夜になり、楫取と同町が遊びに来て、我々は飲み、語った。」

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猿村(杉孫七郎)は長州人の中でも、漢詩や書の名人という点で最も風流人な男であった。余り知られていない話だが、彼は東行が参加し損ねた幕府の文久遣欧使節団(1861年)に雑用係として加わることに成功し、その報告書を読んだ周布さんが例の長州ファイブを留学させることを決めたのだ。ある意味、俊輔、聞多、山尾、遠藤、彌吉にとっての恩人と言えよう。教養があり、かつ気の置けない仲間と言うことで、彼には宮内省で頑張ってもらっていたが、それよりも何よりも、彼と酒を飲み交わしながら漢詩を吟じ、書を競うのは私の一番の楽しみであった



2020/12/16

明治三年閏十月二十四日 (1870/12/16)

 「晴れ。九時に参朝、三時に退出。今日は、工部省権大丞に任官された山尾と共に皇居へと向かった。夏以来、工部省の提言についての議論が紛糾していたわけだが、今月11日に政府は漸く結論を出したようだ。北川と松原に向けて手紙を出した、三宅庸助と柿野三郎についてだ。この二人は昨年から放蕩の限りを尽くしており、繰り返し教訓を与えても行いを改めずにおり、終いには逃走したのであった。杉孫七郎に向け、国事について一筆認めた。」

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山尾君とは嘉永五年からの長い付き合いだ。練兵館での鍛錬、一緒に湯屋に行ったり、蛤鍋茶漬けを食いに行った日々はまるで昨日のことのように覚えている。それが今や生きたる器械となり、日本工業化を推し進めている。偉い!


明治四年五月十三日 (1871/6/30)

「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの...