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2021/05/27

明治四年四月九日 (1871/5/27)

「晴れ。八時頃に中村芳之助が陸軍局について話しに来た。九時過ぎに湯田に行き、山田と兵事について議論した。二時に出仕、柏村を始めとした数名と徴兵制について話し合った。また諸部の大属達と今後の事業について打ち合わせた。痛嘆に値することが少なくない。七時過ぎに御棺を拝みに行き、そこから御墓地へと移動し、八時頃に帰宅。」

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私は早い段階から、大村や山縣の主張する国民皆兵、徴兵制を支持してきた。日本が近代国家の仲間入りをする上で、これは避けては通れぬ道であった。だが国民全体から広く兵を募るということは、『戦うこと』が存在意義であった武士達を解体し四民平等を導入することと同義であった。当然士族からの反発は強く、また政府内にも保守派の反対論者は少なくなかった。大村を暗殺したのも、徴兵令を含めた軍制改革に不満を抱いた者達だ。徴兵令は結果として最初明治六年に発布され、これは軍の近代化を進めるのに貢献した一方、後の不平士族の反乱へとも発展した

2021/05/17

明治四年三月二十八日 (1871/5/17)

「曇り。五時過ぎに御老公が遂に御隠れになられた。この悲痛は言葉に出来ない。家督をお継ぎになられてから三十七年間、御老公は皇国内外の統治に御苦心なされ、その功績は寸紙には記しきれない。御老公は政府の御柱であり、石江家の復興を成し遂げられたお方だ。今日、この死が世間に報じられれば、その影響は万事に及び、人心に動揺を引き起こしてしまうのではないかと不安だ。知事公が御葬式の指示を出された。私は十一時前に退出し、四時頃に再び戻ってきたが、その頃には、皆退出した後であった。帰り道で柏村に会った。その後山縣の所に行き、九時前に帰宅。今日、宍戸敬宇と山縣素狂(有朋)からの手紙が届いた。素狂の手紙には、東京で行われている厳重な取り締まりの詳細が記されていた。」

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今日、松平公、伊達公、山内公、島津公は『四賢候』と呼ばれている。一方の御老公は未だに『そうせい侯』なる陰口を叩かれている……誠に嘆かわしい。常に主君として責任を背負い、有能な人材を登用した御老公は、常に誰が何と言おうとも、私にとって一番の賢候だ



2021/05/05

明治四年三月十六日 (1871/5/5)

「晴れ。朝、池良、長、来島が来訪。東京に手紙を出した。三好軍太郎の報せでは、長府人、品川と三好が私に会いに下関まで来る予定だとのことであった。そこで私は夜に大阪楼に行く予約を入れた。三時過ぎに無鄰菴(東行菴)に行ったが、小藤一人を除いて他は皆帰った後であった。この小藤とは、故主人である福田悠々の妾であった人物で、私達は少しの間昔話に興じた。私は一杯の茶を頂き、その後大阪楼に向かった。三好と品川とは、藩政や時勢について語った。黄昏時に宴会を始め、十二時前に宿に戻った。雨。」

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下関の清水山の麓にある、この無鄰菴は元は山縣が建てた草庵だ。東行がこの地に葬られていたこともあり、山縣は明治の初めに東行の愛人であったおうのさん贈ったため、それ以来は東行庵の名で知られている。ここは花木の管理が行き届いており、この時期は躑躅や石楠花が美しかった



2021/04/17

明治四年二月二十八日 (1871/4/17)

 「雨。骨董屋の大吉、播吉、山中屋が来た。今回蒐集したのは古銅の釣瓶、古銅の香炉、古染付の花瓶、小切二枚を合わせた山湯高濱の掛け軸であった。世外(井上馨)と素狂(山縣有朋)に手紙を書いた。吉井源馬と山田市之丞(顕義)が来た。宗像宗十郎と大岡大眉も来訪。四時前に藩邸前から舟に乗り松島へ、そこから神戸行きの川蒸気に乗り込んだ。六時に到着し、布引屋に一泊。」

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書道と酒宴と花見を除けば、骨董品の蒐集は私の一番の趣味と言っても良い。この時の出張でも、中々素晴らしい品々を集めることが出来た。『もう置くところがないんだから少しは控えてください』と松は言うが、骨董品は集めるも楽し、眺めるも楽し、また人に上げるのにでも便利ということで止め難い。

ちなみにこの日私を訪ねてきた骨董屋のひとつ山中屋は、入り婿である山中定次郎の手により山中商会として明治後半に躍進する。明治二十八年(1895年)、誰よりも一早くニューヨークで店舗を開いた彼は、その後もボストン・ロンドン・パリと矢次早に出店し、欧米の日本ブームを捉えることに成功した。あのメトロポリタン美術館も『我々が二十世紀初頭に素晴らしい日本のコレクションを築くことが出来たのは、ひとえにYamanaka & Coのおかげだ』と言っているぐらいだ。山中商会はその後、第二次世界大戦のせいで在外資産を凍結され、店舗も閉鎖されたが、商会自体は未だに存続している



2021/04/13

明治四年二月二十四日 (1871/4/13)

 「曇り後雨。宍戸、山縣、井上、その他の客人達は昨夜、我が家に泊まっていった。家は活気に溢れ、私の門出を見送る客で一杯であった。十時前に出発、外務省門前に至り、外務省の馬車に乗り換え、二時頃に横浜の山城屋に到着。シュミットが正二郎を連れて来て、そこで我々は数刻会話した。浜田県の佐藤県知事と白根多助に会い、大隈に佐藤を紹介する手紙を書いた。豊原……が訪ねて来た。彼は正二郎と共に洋行する命を受けており、それで私が正二郎と共に帰郷するのを引き止めるようにとの井上世外(馨)からの言伝を伝えに来たのであった。しかし正二郎は病がちであり、今暫し保養するのが良しと私は判断し、結局彼を一緒に連れていくことにした。四時に山城屋を発ち、豊原を訪ねた。更にシュミットを訪ねる予定であったが、その道すがら彼と鉢合わせになり、彼は我々を見送りに船まで付いて来た。正二郎と別れる時のシュミットの悲しみは深く、激しく涙を流していた。私にも彼の気持ちは良く分かり、つられ泣きしてしまった。五時に錨を上げた。今回の船名はゴールデン・エイジ(黄金時代)だ。記、杉、野村、三好と徳山の遠藤貞一郎が同船していた。乗艦時に激しい降雨。」

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シュミットは英国大使一行の通訳の一人だ。彼とは正二郎と私が箱根に滞在していた際に会い、少し話す機会があったのだが、その折に正二郎の賢明さに感心したシュミットが、正二郎を彼と一緒に住まわせ英語を学ばせましょうと提案してきたのであった。突然の申し出で面食らったものだが、話してみるとシュミットは信頼に足る人物であるようであったので(私は人を見る目はあるのだ)、これからの時代は英語が非常に大切であるということも踏まえ、私は正二郎を彼に一年預けることにしたのであった

2021/04/05

明治四年二月十六日 (1871/4/5)

 「曇り。二三件、内密の件ついて相談するために、岩倉卿がお越しになられた。杉猿邨(孫七郎)が来た。米田と安場の両大参事も来た。山縣素狂(有朋)も話しに来た。時田少輔、三吉慎蔵、長親兵衛も来た。一時過ぎに、四藩建言の進捗状況を相談に大久保参議を訪ねた。その後、杉に会いに神田邸に向かい、四藩建言について大久保と議論したと報告し、我が藩での布告についてや、因幡と備州関係について等を議論した。帰り道に、宍戸刑部少輔を訪ね、六時過ぎに帰宅。夜、杉山と山縣と話し、此度の新聞局開局における私の意図を語った。遠境の人々にも、諸藩で行われている、広くは世界で起きている改革について広く知らしめ、時勢近情について理解を深め、開化を促したいのだ。福井も同席していて、会話に参加した。今日、神田邸から寺内真一を家まで連れて来た。」

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この年刊行された『新聞雑誌』や、『東京日日新聞』(後の毎日新聞)からも分かる通り、私は文明開化における新聞の重要性をよく理解しており、その普及を積極的に後押ししていた。だが政府に好意的な御用新聞が主流であったのは、明治でも僅か最初の数年だけの話で、自由民権運動が盛んになった明治七年以降は政府批判が目立つ新聞も多く出回り始め、政府は言論統制を始めなくてはならなかった。言論の自由と言った概念は、当時上り調子であったアメリカ合衆国でも良く叫ばれたものだが、明治初期の不安定な時代、誰しもが新政府に不満を抱いていた時代には劇薬以外の何物でもなかった……



2021/04/03

明治四年二月十四日 (1871/4/3)

 「晴れ。山縣狂介(有朋)、宍戸三、藤井勉が話しに来た。昨夜、世外(井上馨)が岩倉卿の伝言を手紙で書き送ってくれ、今朝もう一通が届いた。その主意は私が参朝するようにと勧めるものであった。なんでも岩倉卿と辨官一同が今日私に相談しに自宅までお越しになられるつもりだという話であったので、私は病をおして参朝した。三時過ぎに退出。その後、神田邸に向かい豊浦と岩国の両知事公に御挨拶をした。野村と藤井を見かけ、暫く山口藩の状況について議論した。それから薩摩藩邸に向かい、西郷と会い別れの挨拶をした。世外(井上馨)も訪ね、井田五臓、太田里一、亥和太と会った。更に、井上小豊後を訪ねたが、病がぶり返してきたので、そのまま帰宅。既に六時近くであった。世外宅で、杉、野村、宍戸にも会った。深夜に地震。ここのところ地震が多かったが、今日のは特に強烈であった。記、後藤からの手紙が届いた」

2021/04/01

明治四年二月十二日 (1871/4/1)

 「晴れ。遡ること二月十日の夜、私は一人静かに回想していた。三条公の邸宅、西郷や他の者達が同席していたあの朝、私は未だに根強く残っている従来からのやり方の弊害に対する警告を論じるのに熱くなりすぎてしまった。今思うと少し恥ずかしく、そこで朝の三時であったにも関わらず、岩倉卿宛に手紙をしたためた。今朝、井上世外(馨)が岩倉卿の伝言を伝えにきたので、私はあの手紙の中で表すことの出来なかったことを陳述した。西郷吉之助が訪ねて来て、互いの藩の事情と国家の情勢について議論し、朝廷の現状にも話が及んだ。山縣素狂(有朋)も話しに来た。」

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どうも私は感情的になりすぎるふしがあり、言ってしまった後、やってしまった後で後悔することが少なくなかった……このツイッターも、リアルタイムではなく何日分か予め登録しておくことで、書いたら悔いてしまうことは書かないようにしている。便利な世になったものだ

2021/03/19

明治四年一月二十九日 (1871/3/19)

「晴れ。朝、県知事の中山が来た。大西郷も来た。板垣大参事も来た。小川からの手紙が届いた。プロイセン人に贈り物を頂いた。山田の手紙も届いた。小川大属と吉井民部大丞宛に手紙を出した。山縣素狂(有朋)が話しに来た。昨日ニューヨーク号が港に着き、今日四時に出発。昨夜、林少丞が会いに来て、私の護衛に兵部省が派遣した十人の兵隊達がこの船に乗って横浜からやって来たと伝えてくれた。参議をこれ程までに重んじるのは宜しくないと、私はこの朝令を頑なに断ろうとしたが、最終的には受け入れざるを得なかった。四時に乗艦、五時過ぎに錨を上げた。」

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倒幕佐幕関係なく、暗殺が日常茶飯事であった幕末の動乱期を生き抜いた我々からすると、物々しい護衛達に囲まれて過ごすのは若干見苦しい、というのが私の本心であった。これは西郷や大久保も同じ考えであったようで、人は常に護衛をつけるよう彼等に忠告し、時には無理やり付いて回っていたが、彼等自身はこれを不要と考えていた。大久保などは内務卿になった後ですら大した護衛をつけておらず、それが原因で遭難することになったわけだが、私が彼でも同じことをしたであろう

2021/03/18

明治四年一月二十八日 (1871/3/18)

「曇り、午後に少し晴れ。昨夜と今日、私は柏村と高杉の両参事宛の手紙を書き上げた。内容としては、一つには血気盛んな若者達に関する愚案、一つにはお雇い外国人に説諭すべし内容、一つには有能な人材は出自に関係なく下層の人間でも取り立てるべしという考え、一つには若者達の望みを絶つのは好ましくないという考え、一つには下役人を雇う際には大目的について理解ある人間を選ばないと新しい法や制度の理解が足りず市民を混乱させてしまう等々、徒然の考えを両参事宛の手紙に記し、今日帰藩する予定の宮木に託した。プロイセン人も今日長州に向かう予定のようだ。彼とは宿で一度、東京公使館でも一度会っている。殿川も一緒に帰藩の予定だ。雲揚丸は今夜二時に錨を上げるという。フランスとプロイセンの停戦が報じられているが、フランス南部はまだ降伏していないそうだ。夜、山縣と長門屋が話しに来た。十二時過ぎに三好一行が戻ってきた。」

2021/03/17

明治四年一月二十七日 (1871/3/17)

「曇り後雨。朝、長谷川を訪ね、彼の書と画を拝見した。吉井源馬が話しに来た。西園寺雪江も来た。品川省吾は訪ねて来た。山田と山縣が話しに来た。今日我々は、御親兵計画に着手する。鳥尾も話しに来た。一時過ぎに出発、大久保を訪ね、そこから軍の護衛に守られながら松島で乗艦。錨を上げる頃には二時過ぎになっており、神戸港には四時過ぎに停泊、布引屋に至った。航海中、まるで麻の如く乱れた雨が降っていた。夜、殿川と山縣が話しに来た。記、今日私が乗った船は先日浪華に向かう時のと同じ船であった。今朝発つ予定であったのだが、遅延があったのだという。霊鑑寺、宮内、西川、晋一郎と父君壮一が政府への建言書を持って来た。」

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布引は日本の三大神滝の一つで、伊勢物語に取り上げられているぐらいに古くからの名所だ。 広重の絵や、明治時代の写真を見てもわかる通り、非常に荘厳な景色で、私も滞在を楽しんだものだ。温泉宿等があった辺りは今は新神戸駅で、大分見た目も変わってしまったが、荘厳な滝は今も変わらず流れている




2021/03/14

明治四年一月二十四日 (1871/3/14)

「穏やかな天気。宮本、三好、河野に請われ、一緒に蒸気船で浪華に移動。山縣も同船しており、船内では馬渡にも会った。十時に神戸で錨を上げ、十二時には浪華に到着。上陸地には護衛の兵隊達が既に待機していた――電信とは優れものだ。常安邸に一泊。山田、松本、佐々木、その他大勢の来客。松本と佐々木は私を訪ね神戸に来る予定であったらしい。山田は私宛の手紙を持ってきた。記、山縣も訪ねて来た。山田に近情を説明し、有志達が分裂せず国家統一の土台を確立できることを祈っていると伝えた。今日、プロイセンの青木周蔵からの手紙を受け取った。」

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電信は明治の技術革新の中でも最も重要なものの一つであった。1844年のモールス氏の実験成功から、電信は驚異的な早さで世界中に広がり、十年と経たぬ1851年には既に世界初の海底ケーブルが英国と欧州を繋いでいた。佐久間象山等、先見の明ある人々はこの技術のことを知っていたが、日本は国として完全に出遅れており、電信設置は新政府の緊急課題の一つであった。我々は御雇い外国人達や国際的な協力者に恵まれ、この年、明治四年には上海やウラジオストクへの海底ケーブルを通じて、電信で世界と繋がることに成功した

 


2021/03/13

明治四年一月二十三日 (1871/3/13)

「晴れ。山縣狂介(有朋)と熊野一郎が到着した。両者とも此度の変を聞き、私同様、深く嘆いていた。河野亀太郎が私を訪ね、浪華からやって来た。三条公、野村、藤井宛の手紙を書き、杉に託した。その他、幾つかの案件に関する私の愚考を伝えておいた。河村大丞が訪ねて来た。杉は、四時過ぎに乗艦。今朝、安場逸平と大田区露岩太が訪ねて来た。山縣と一緒に港に到着した鳥尾小彌太も訪ねて来た。」

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鳥尾、山縣そして三浦の三人はみな奇兵隊以来の付き合いで、私は三人とも仲良くしていたのだが、お互いとの関係性は複雑なものであったようだ。鳥尾も三浦もヤンチャ坊主気質で、山縣より十歳ほど年少であったにも関わらず、彼の藩閥政治に反発、対立していた。だがそれも仕事や主義上の話であり、人間としてはお互いを深く尊敬・信頼していたらしく、晩年まで交友があり、死を前にした鳥尾も山縣も、三浦に家族や後事を託したという



2021/03/01

明治四年一月十一日 (1871/3/1)

「晴れ。今宵、岩倉卿が両公をお訪ねになり、私も同席した。終日、来客絶えず。今夜は山縣狂介(有朋)の家で人々と話した。久保や杉が居た。記、今日、奥平二水(数馬)が萩に帰ってきた。」

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杉や奥平の様に風流な友人達はかけがえのない宝物だ。一年前に私が萩に戻っていた時も、我々は秘密の会合を開き、一興としてこの火鉢に寄せ書きをしたのであった。私が石を、杉が竹を、奥平が山茶花を、宍戸が梅を描き、野村が詩を書いたのだ。名作ではないかね?



2021/02/24

明治四年一月六日 (1871/2/24)

「晴れ。岩倉卿一行到着の報せ。早速問屋口に向かい、山縣狂介(有朋)と落ち合う。大久保と西郷も今日到着した。どうやら彼等の藩も落ち着いたようだ。岩倉卿を訪ね、その後大久保、西郷兄弟、河村、池ノ上に会った。夜再び岩倉卿を訪ね、そこで近情について話を伺った。」

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軍人であったことが功を奏したのか、山縣は長人の中で最も西郷に近しい一人であった。彼は薩摩まで岩倉卿と大久保に同行し、西郷に廃藩置県に賛同するよう働きかけたのであった。時期尚早と思われていたこの話は、西郷があっさりと首を縦に振ったことで加速することになる



2021/02/03

明治三年十二月十四日 (1871/2/3)

 「晴れ。十時過ぎに長州藩邸に戻り、廣澤、三浦、後藤宛に手紙を出した。私の部屋は来客で満座であった。井上、山田、山縣等が話しに来た。岩倉卿を含めた人々は今朝乗艦の予定であったのだが、荒波でそれが叶わず、山縣もそれで藩邸に戻ってきたのだという。井上から最近の不安要因について聞かされ、私は三条公に向けて手紙を出した。今日もまた十点以上の揮毫を行った。」

2021/01/27

明治三年十二月七日 (1871/1/27)

 「晴れ。雑多な来客。日田県への出兵について話しに、山縣素狂(有朋)と高屋……が浪華から来た。この問題についてどう対処するかは、先日岩倉卿の所で戦略を定めていたので、今日は指示の詳細を詰める為に岩倉卿亭へと向かった。最近、浮浪の徒が浪華に到着し、僧侶や不平の輩達を集めて日田県の人民を扇動し、一揆を引き起こして県庁を襲い、また周防の大島郡にも攻め入り金や穀物を強奪したとの噂を伺った。この連中は昨春長州で反乱を起こした大楽隊や他の隊とも繋がっているとの話だ。如何にこれらの連中を取締るか、岩倉卿と議論した。夕方、前田松閣が来た。彼とは二回ほど会っており、前回京都に来た時には私に治療を施してくれたのであった。槇村と藤村に頼まれた揮毫を仕上げた。今夜は中村楼に井上夫人を招待しており、私は五時頃に祇園へお参りしてから、彼女に会いに茶屋へと向かった。三味線と舞は酒をさらに旨くした。山縣と高屋も加わり、私は十時過ぎに高屋の泊まっている松力に向かった。旧友の君遊が居て一時の談笑を交わした。十二時に宿に戻り就寝。記、大久保は今朝出立。」

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山縣は面倒事に巻き込まれがちな質で、当時も引っ切り無しに戦に駆り出されていた。彼の後世の評価は汚職・反政党・反社会運動といった否定的なものが多いが、あれはあれで人の面倒見が良く、律儀で、新しいものに飛びつかない慎重で、良い奴であった。俊輔とは正反対の気質だが仲は良かった



2021/01/22

明治三年十二月二日 (1871/1/22)

「曇り。昨朝から私を探していた井上世外(馨)、山田顕義、山縣素狂(有朋)が、ようやく堺辰楼で私と落ち合い、一緒に京久楼に向かった。鳥尾と河野も参加。二時過ぎに井上世外と富田楼に行くと、土佐の岩崎某(弥太郎)、高野兵部少丞と、馬渡某はもう来ていた。」

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岩崎弥太郎はこの当時、設立して一年ほどしか経っていない九十九商会の経営に関わっていた。土佐藩の連中が作った商会で、主に藩から払い下げられた三隻の船による海運業を営んでいたわけだ。これが後の三菱商会だ。それもあり、晩年は聞多と頗る仲が悪かったと聞いている



2020/12/20

明治三年閏十月二十八日 (1870/12/20)

 「晴れ。九時に参朝、三時過ぎに退出。廣澤と一緒に神田邸へと向かい、四時過ぎに帰宅。山縣狂介(有朋)が話をしに来た。記、夜、三浦梧楼が話をしに来た、斎藤も来た。」

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神田邸というのは、今は大手町の三井物産ビルがある場所に位置していた藩邸で、元は姫路藩のものであったのを、私自ら交渉して購入した思い出の物件だ。御覧の通り御堀の手前と立地条件は最高で大分気に入っていたのだが、それほど経たぬ内に政府の都合でまた引っ越さねばならなくなったのであった……



明治四年五月十三日 (1871/6/30)

「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの...