「刺賀佐兵衛、岡義右衛門、宍戸……、内藤次郎、……と長府の三好周亮が訪ねて来た。山田市之丞(顕義)が、元会津人の日下一郎を連れて来た。日下は先日久留米のあたりで九州の近情を調査してきたばかりで、難波を経由して山口に戻って来たところであった。私は彼にもう一度日田に行ってもらいたいと思っている。李家文厚、三好軍太郎、岩岡安田……が来て、前途諸事について議論した。十一時頃、藩廟に出仕、退出時に長府の三好を訪ねたが不在。次に、萬代屋と片山屋に行き、山縣と杉と話した。三月二十一日(5/10)付けの三条岩倉両卿からの手紙が届いた。その中には最近の東京での出来事やご決断について書かれており、わたしはこの手紙を通じて東京の近情をよく理解した。今夜、中村屋に泊まりに行った。」
2021/05/20
2021/04/11
明治四年二月二十二日 (1871/4/11)
「晴れ。七時過ぎに岩倉卿に会い現況について議論してから九時過ぎに参朝。岩倉卿、大久保と私は二時過ぎに御前に呼び出され、御酒と食事を賜った。四時頃に退出し染井に向かうと、庭の桜は七八分咲きになっており風光明媚であった。だが今年の春は去年とは違い、私は心中不満に思っていることがある。今日、後藤雲濤(象二郎)夫妻、杉猿村(孫七郎)、平岡夫妻、老伊藤夫妻、その他数名が花見に来た。八時過ぎに解散、私は九時過ぎに帰宅した。」
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今日各所で見られるソメイヨシノは、私の別荘があった染井の造園師達が明治に育成したもので、実は意外と歴史の浅い品種だ。元は桜の名所吉野山にあやかり吉野桜と呼ばれていたが、それでは本物の吉野の桜と紛らわしいということで今の名になった。東京招魂社(靖国神社)の桜も私が植えたソメイヨシノだ
2021/04/03
明治四年二月十四日 (1871/4/3)
「晴れ。山縣狂介(有朋)、宍戸三、藤井勉が話しに来た。昨夜、世外(井上馨)が岩倉卿の伝言を手紙で書き送ってくれ、今朝もう一通が届いた。その主意は私が参朝するようにと勧めるものであった。なんでも岩倉卿と辨官一同が今日私に相談しに自宅までお越しになられるつもりだという話であったので、私は病をおして参朝した。三時過ぎに退出。その後、神田邸に向かい豊浦と岩国の両知事公に御挨拶をした。野村と藤井を見かけ、暫く山口藩の状況について議論した。それから薩摩藩邸に向かい、西郷と会い別れの挨拶をした。世外(井上馨)も訪ね、井田五臓、太田里一、亥和太と会った。更に、井上小豊後を訪ねたが、病がぶり返してきたので、そのまま帰宅。既に六時近くであった。世外宅で、杉、野村、宍戸にも会った。深夜に地震。ここのところ地震が多かったが、今日のは特に強烈であった。記、後藤からの手紙が届いた」
2021/04/01
明治四年二月十二日 (1871/4/1)
「晴れ。遡ること二月十日の夜、私は一人静かに回想していた。三条公の邸宅、西郷や他の者達が同席していたあの朝、私は未だに根強く残っている従来からのやり方の弊害に対する警告を論じるのに熱くなりすぎてしまった。今思うと少し恥ずかしく、そこで朝の三時であったにも関わらず、岩倉卿宛に手紙をしたためた。今朝、井上世外(馨)が岩倉卿の伝言を伝えにきたので、私はあの手紙の中で表すことの出来なかったことを陳述した。西郷吉之助が訪ねて来て、互いの藩の事情と国家の情勢について議論し、朝廷の現状にも話が及んだ。山縣素狂(有朋)も話しに来た。」
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どうも私は感情的になりすぎるふしがあり、言ってしまった後、やってしまった後で後悔することが少なくなかった……このツイッターも、リアルタイムではなく何日分か予め登録しておくことで、書いたら悔いてしまうことは書かないようにしている。便利な世になったものだ
2021/03/28
明治四年二月八日 (1871/3/28)
「晴れ。山縣素狂(有朋)が訪ねて来た。岩倉大納言もお越しになられた。後藤象二郎も話をしに来た。四時に三条公の邸宅に向かうと、板垣退助、杉孫七郎、西郷吉之助、大久保参議が同席しており、我々は三藩に関する提案を建言した。時勢の変遷、世論の有様を考えている内に、私の心中にある悲嘆の気持ちが大きくなりすぎ、遂には今日の情勢に対する私の意見を論じ、不覚にも涙を流してしまった。六時に退出、杉と同じ馬車で帰った。」
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今こうして日記を読み返してみると、私は本当に良く泣くな……大久保は何も言わないが呆れた顔をするので、彼の前ではあまり泣きたくないのだが、一度想いが溢れてしまうと、もはや自分では制御できないのだから仕方がないだろう……
2021/03/02
明治四年一月十二日 (1871/3/2)
「晴れ。朝から各所より来客あり。近頃、湯治に来ている肥後の人間が一二名も話をしに来た。十一時過ぎに杉を訪ね、一緒に政廟に出仕、血気盛んな若者達の問題について議論した。五時に退出し、湯田で岩倉卿との謁見し、大久保と会った。帰り道に西郷を始めとした今回山口城に入城した人々を訪ねた。皆、明日出立の予定だ。大久保は一人、明後日に発つ予定だが。九時に宿に戻ると、私の部屋は山のような来客で溢れていた」
2021/03/01
明治四年一月十一日 (1871/3/1)
「晴れ。今宵、岩倉卿が両公をお訪ねになり、私も同席した。終日、来客絶えず。今夜は山縣狂介(有朋)の家で人々と話した。久保や杉が居た。記、今日、奥平二水(数馬)が萩に帰ってきた。」
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杉や奥平の様に風流な友人達はかけがえのない宝物だ。一年前に私が萩に戻っていた時も、我々は秘密の会合を開き、一興としてこの火鉢に寄せ書きをしたのであった。私が石を、杉が竹を、奥平が山茶花を、宍戸が梅を描き、野村が詩を書いたのだ。名作ではないかね?
2021/02/28
明治四年一月十日 (1871/2/28)
「晴れ。御老公が拝命の意を勅使一行にお伝えになられた。大久保と西郷が政廟まで来て、考えを両公に言上。五時過ぎに岩倉卿と会った。今朝、大久保と西郷に一緒に土佐まで来てほしいと請われ、私は同意した。終日客が絶えず、夜には友人達がまた飲みに来た。」
2021/02/27
明治四年一月九日 (1871/2/27)
「雨、今日は勅使が藩官をお訪ねになり、従二位の毛利公が勅許を拝命した。その後、勅使一行は豊榮神社にお参りになり、刀剣を奉納した。甥の和田芳助が訪ねて来た。夜、坪井、長屋、山縣、正木、国重が飲みに来た。今夜、私は二人の毛利公に会いに政廟に向かった。天下の大勢について論じ、薩摩藩の考えを伝え、夜になる前に退出。両公とも私の考えに賛同なされ、私は感涙溢れるばかりであった。」
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豊榮神社は長州の祖である毛利元就公を祭神とした祭っており、元は宝暦十二年(1762年)以来の神社なのだが、天皇陛下に『豊榮』の神号を賜ったのはつい最近、明治二年のことであった。此度の勅使の一環として岩倉卿に刀剣を奉納頂き、またこの年後半に、現社殿への遷座が行われた
2021/02/26
明治四年一月八日 (1871/2/26)
「晴れ。山縣狂介(有朋)、三好軍太郎、有富源兵衛が来た。岩倉卿からのお手紙が届いた。二時過ぎに大久保を訪ねると、西郷も同席しており、そこで彼等の考えを聞いた。私は早くから版籍返上の案を考えていたわけだが、遂に国家がこの計画を実行することになりそうだ。私はこれを始めとして、世界諸国に並び立つことができるような、より強固な地盤を持った国家を作り上げたい。最初は足掛かりすらなかった、だが二年余りの努力の後、今日ようやく計画を実行に移す時が来たのだと、私は信じている。我々はこの計画の大意を議論し、要点に関する決断を下した。五時過ぎに退出し、岩倉卿にこの計画の主点について伝えに行った。夜、宿に戻る。来客が絶えなかった。」
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私の一生は期待と失望の繰り返しであったが、そんな中、一点の曇りもなく誇りに思っている功績を一つ挙げるとしたら、それは廃藩置県だ。明治四年は未だに安定とは程遠く、実質的な治世は未だに旧藩主達に任されていた。藩を廃し、代わりに中央政府が派遣した知事達を各県に派遣すべしという案は、当時の政府の人間なら誰もが考えていたことだが、それを今行えるかどうかは、誰にも分かっていなかった。私は元より廃藩置県の提唱者であったが、従来は漸進的な大久保もがこれに賛同し、また西郷を説得してくれたのは、統一国家日本にとって何よりの幸運であった
2021/02/25
明治四年一月七日 (1871/2/25)
「晴れ。岩倉卿一行の御入場に合わせ、山口城へ戻った。岩倉卿を客館御門でお出迎えすると、我が二人の毛利公もお出迎えに来られた。知事公は柊木に行く御用時があったので、岩倉卿とは客館でお会いになられてから、早々にお発ちになられた。私は大久保を始めとした他の客をもてなし、今現在進行中の計画について議論した。夜、山縣彌八、奥平数馬、坪井宗右衛門、勝坂之本兵衛が飲みに来た。」
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城といっても、山口城・藩庁はどちらかと言うと西洋式城郭に近かった。元は文久三年(1863年)に攘夷を決意なされた御老公が湯田への湯治と偽り萩から山口へと居を移された際に建築されたのだが、禁門の変で藩内政治がひっくり返ると一旦打ち壊され、その後慶応二年(1866年)に再建築されたのであった
2021/02/24
明治四年一月六日 (1871/2/24)
「晴れ。岩倉卿一行到着の報せ。早速問屋口に向かい、山縣狂介(有朋)と落ち合う。大久保と西郷も今日到着した。どうやら彼等の藩も落ち着いたようだ。岩倉卿を訪ね、その後大久保、西郷兄弟、河村、池ノ上に会った。夜再び岩倉卿を訪ね、そこで近情について話を伺った。」
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軍人であったことが功を奏したのか、山縣は長人の中で最も西郷に近しい一人であった。彼は薩摩まで岩倉卿と大久保に同行し、西郷に廃藩置県に賛同するよう働きかけたのであった。時期尚早と思われていたこの話は、西郷があっさりと首を縦に振ったことで加速することになる
2021/02/23
明治四年一月五日 (1871/2/23)
「晴れ。新築地を散歩し、御船蔵の中を通り、伊木見に向かった。藤松多之助が訪ねて来た。梶取、同町等も来た。終日、杉、坪井、貞永が私に同行した。今日は、肥後熊本藩の湯治一が訪ねて来た。岩倉卿と彼の一行が我が藩に到着したため、会いに来たとのことであった。杉と私は相談しに宿の山城屋に向かった。」
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御船蔵は慶長以来の毛利家の水軍基地で、東行が文治元年(1864年)に決起した折に、二十人弱の手勢と共に襲撃し、無血で軍艦を奪取したのもここの話だ(今はもう埋め立てられており見る影もないが)。私はその後、大村に請われ但馬出石での隠遁生活を終え、長州藩の指導者的位置に据えられたのであった……
2021/02/02
明治三年十二月十三日 (1871/2/2)
「晴れ。来客絶えず。四時過ぎに大久保を訪ねたが、不在であった。すぐに岩倉卿の元へと向かい、長時間の議論を交わした。帰り道に平原と共に、高麗橋から舟に乗ったが、水位が低すぎたため陸に上がり……に向かった。小川も来た。十二時過ぎに堺屋に行き、一泊。記、今朝は十点以上の揮毫を行った。」
2021/02/01
明治三年十二月十二日 (1871/2/1)
「晴れ。九時に大久保を訪ね、共に岩倉卿の家に向かい、兵部省出張所へ軍隊の調練を見分。その後、大阪城内の諸局を見学し、天守閣へと登り眺望した。豊臣秀吉公のこの地に抱いていた計画の規模の大きさが想像できた。二時過ぎに藩邸に戻り、山縣と高屋から土佐の近況について聞いた。高屋は日田行きを止め東京に戻ることを決めたため、再び岩倉卿を訪れ、山田と高屋とも相談しつつ、代わりに林少丞を送り込むことを決めた。七時過ぎに退出し、帰り際に大久保を訪ねてから、藩邸に戻った。」
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私は昔から秀吉公を深く尊敬している。生まれ身分ではなく、ただ身一つで立身出世を成し遂げたという彼の痛快な功績は、誰もが倣うべきものだ……と、大久保に話してみたところ『私は、より辛抱強く、より効果的な国造りに成功した家康公のほうがより尊敬しています』との返事が返ってきたのであった
2021/01/27
明治三年十二月七日 (1871/1/27)
「晴れ。雑多な来客。日田県への出兵について話しに、山縣素狂(有朋)と高屋……が浪華から来た。この問題についてどう対処するかは、先日岩倉卿の所で戦略を定めていたので、今日は指示の詳細を詰める為に岩倉卿亭へと向かった。最近、浮浪の徒が浪華に到着し、僧侶や不平の輩達を集めて日田県の人民を扇動し、一揆を引き起こして県庁を襲い、また周防の大島郡にも攻め入り金や穀物を強奪したとの噂を伺った。この連中は昨春長州で反乱を起こした大楽隊や他の隊とも繋がっているとの話だ。如何にこれらの連中を取締るか、岩倉卿と議論した。夕方、前田松閣が来た。彼とは二回ほど会っており、前回京都に来た時には私に治療を施してくれたのであった。槇村と藤村に頼まれた揮毫を仕上げた。今夜は中村楼に井上夫人を招待しており、私は五時頃に祇園へお参りしてから、彼女に会いに茶屋へと向かった。三味線と舞は酒をさらに旨くした。山縣と高屋も加わり、私は十時過ぎに高屋の泊まっている松力に向かった。旧友の君遊が居て一時の談笑を交わした。十二時に宿に戻り就寝。記、大久保は今朝出立。」
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山縣は面倒事に巻き込まれがちな質で、当時も引っ切り無しに戦に駆り出されていた。彼の後世の評価は汚職・反政党・反社会運動といった否定的なものが多いが、あれはあれで人の面倒見が良く、律儀で、新しいものに飛びつかない慎重で、良い奴であった。俊輔とは正反対の気質だが仲は良かった
2021/01/25
明治三年十二月五日 (1871/1/25)
「晴れ。雑多な来客。二時頃に大久保を訪ね、共に岩倉卿の所へと向かい、在京政府の役割等について議論した。夜十時頃に宿に戻った。」
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二人は幕末、まだ岩倉卿が蟄居される前、公武合体を目指し色々と画策していた時代からの付き合いだ。双方とも名より実を取る主義で、目的の為には手段を選ばない所も似ていた。少し妬ましい程に強い信頼で結ばれており、同志と言うよりはむしろ兄弟に近かったかもしれない
2021/01/24
明治三年十二月四日 (1871/1/24)
「夜明けに風雪。窓を開け放つと、東山と鴨川は一面の銀世界であった。この景色の美しさは筆舌に尽くし難い。岩倉卿から手紙と共にお茶と洋酒の贈り物を頂戴した。十一時過ぎに、月波楼に泊まっている大久保を訪ねると、そこには村田新八も居合わせていた。酒を飲みつつ談笑し、四時過ぎに退出し、前田松閣に会いに行った。そこから岩倉卿の元へ向かい、現状について密談を交わし、七時頃に宿に戻った。莱山が朝訪ねて来た。夜には、浪華から到着した平原も話しに来た。」
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岩倉卿は権謀術数で知られているが、その実非常に質素で気さくなお方だ。私もそうなのだが酒が大層にお好きで、大事な話のときにはいつも徳利を抱え込み、良く対酌で語り合ったものだ
明治四年五月十三日 (1871/6/30)
「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの...
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「雪舞うこと花咲くが如く。ここ十七年のうちでも一番に寒い冬だ。十二時に、両公が勅使の滞在している旅館で晩餐会を開かれ、私も参席した。三時頃に廣澤の家に行き、次に湯田で大久保に会い、九時過ぎに宿に戻った。来客が引っ切り無しで非常に忙しかった。」
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「晴れ。内海と他の者達が訪ねて来た。私は二時過ぎまで布団の中で過ごした後、諸氏と散歩に行き、歯科医のエリオット先生を訪ね、その後プロイセン公使を訪ねた。公使とケンパーマンには長州公からの贈り物である漆器と縮緬をお渡しした。今日はプロイセン皇帝の誕生日だそうで、また戦勝記念日でもあ...
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「晴れ。朝から各所より来客あり。近頃、湯治に来ている肥後の人間が一二名も話をしに来た。十一時過ぎに杉を訪ね、一緒に政廟に出仕、血気盛んな若者達の問題について議論した。五時に退出し、湯田で岩倉卿との謁見し、大久保と会った。帰り道に西郷を始めとした今回山口城に入城した人々を訪ねた。皆...









