2021/04/13

明治四年二月二十四日 (1871/4/13)

 「曇り後雨。宍戸、山縣、井上、その他の客人達は昨夜、我が家に泊まっていった。家は活気に溢れ、私の門出を見送る客で一杯であった。十時前に出発、外務省門前に至り、外務省の馬車に乗り換え、二時頃に横浜の山城屋に到着。シュミットが正二郎を連れて来て、そこで我々は数刻会話した。浜田県の佐藤県知事と白根多助に会い、大隈に佐藤を紹介する手紙を書いた。豊原……が訪ねて来た。彼は正二郎と共に洋行する命を受けており、それで私が正二郎と共に帰郷するのを引き止めるようにとの井上世外(馨)からの言伝を伝えに来たのであった。しかし正二郎は病がちであり、今暫し保養するのが良しと私は判断し、結局彼を一緒に連れていくことにした。四時に山城屋を発ち、豊原を訪ねた。更にシュミットを訪ねる予定であったが、その道すがら彼と鉢合わせになり、彼は我々を見送りに船まで付いて来た。正二郎と別れる時のシュミットの悲しみは深く、激しく涙を流していた。私にも彼の気持ちは良く分かり、つられ泣きしてしまった。五時に錨を上げた。今回の船名はゴールデン・エイジ(黄金時代)だ。記、杉、野村、三好と徳山の遠藤貞一郎が同船していた。乗艦時に激しい降雨。」

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シュミットは英国大使一行の通訳の一人だ。彼とは正二郎と私が箱根に滞在していた際に会い、少し話す機会があったのだが、その折に正二郎の賢明さに感心したシュミットが、正二郎を彼と一緒に住まわせ英語を学ばせましょうと提案してきたのであった。突然の申し出で面食らったものだが、話してみるとシュミットは信頼に足る人物であるようであったので(私は人を見る目はあるのだ)、これからの時代は英語が非常に大切であるということも踏まえ、私は正二郎を彼に一年預けることにしたのであった

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明治四年五月十三日 (1871/6/30)

「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの...