2021/06/21

明治四年五月四日 (1871/6/21)

「晴れ。蒸し暑い。大津四郎右衛門、天野順太、石部禄郎、小幡彦七、曾根玄三、児玉少輔、菊屋孫太郎その他、一時には二十人余りの来客。佐畑健助が来た。明日東京に向けて発つという話であったので、吉富宛の手紙を託した。高杉小忠太が訪ねて来た。昨日、私は高杉家で、東行の息子、梅太郎を引き取り東京に連れて行くことを提案した。一家は同意し、小忠太がこの件について打ち合わせるため、梅太郎も連れてやって来たのだ。この子も当年八歳だ。東行は数年前、不幸にもその命を落とした私の良き友で、私はきっと生涯彼を忘れられないであろう。旧友の岡義右衛門が今日萩に帰った。矢嶋が私に託した品々の中から、蕪村作の掛け軸と、中小の陶器を幾つか、高品質と低品質のもの両方合わせて購入した。十一時に出仕。十二時過ぎに、大属以上の者達による合議が開かれ、二十年以内に藩の四百万金の借金を返済するという会計目標で皆合意した。もしこの約束を違えることになれば、我々は実に百万の人民の信頼を失うだけでなく、藩政府自体が立ち行かなくなることは言うまでもあるまい。このような約束を立てるのは如何なものかと私は思ったが、敢えて口を慎んだ。四時過ぎに退出し、忠正公の墓参りをしてから山田と小幡を訪ねた。これは公私半々の訪問であった。萬代屋で井上世外(馨)と落ち合い、一緒に山城屋と片山の所に寄り、七時頃に帰宅。」

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梅太郎、後の高杉東一とは一緒に東京に戻り、そこで私と正二郎と共に写真を撮った(左の小さいのが梅太郎で、右が正二郎だ)。彼は後に俊輔と共に洋行し、辞書の編纂に関わったほか、外交官として海外に駐在した。きっと海外に興味津々であった東行も、あの世で誇りに思っていることだろう



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明治四年五月十三日 (1871/6/30)

「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの...