2021/06/29

明治四年五月十二日 (1871/6/29)

 「晴れ。五時に三輪惣の大久保と西郷を訪ね、東西の事情について話した。大久保は九州出兵の遅延について謝罪し、長州の知事公と私が東京に上るよう促した。二人は三条岩倉両卿、加えて薩摩の知事公(島津久光)の手紙も持参してきた。私はそこから藩廟に出仕し、大参事と他の者達とこの一件について相談し、また会計局改正の件についても話し合った。退出後、直ちに忠正公の御墓参りをしてから帰宅。今日は酷く暑く、九十度近い気温であった。奥平数馬、佐藤寛作、山本清吉が話しに来た。佐藤は先日東京から戻り、濱田へと派遣されていたため、そちらの事情について教えてくれた。九時頃に、野村靖之助、三好軍太郎、南野一郎、小松謙二郎が来た。南野とは先日萩でも会っている。彼は最近山口に来たらしく、明日下関に帰る予定だ。奥平が泊って行った。記、平原平右衛門が来た。」

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日本初の温度計は、かの平賀源内が1765年に作ったのが初めてだとされている。これはおそらくオランダの資料を参考にしたのか、当時まだ主流であった華氏が使われており、それは幕末・明治初期の私の時代でもまだ同じであった。日本が摂氏へと切り替えるのは大分先、大正八年のことだ。



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明治四年五月十三日 (1871/6/30)

「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの...