「晴れ。五時に三輪惣の大久保と西郷を訪ね、東西の事情について話した。大久保は九州出兵の遅延について謝罪し、長州の知事公と私が東京に上るよう促した。二人は三条岩倉両卿、加えて薩摩の知事公(島津久光)の手紙も持参してきた。私はそこから藩廟に出仕し、大参事と他の者達とこの一件について相談し、また会計局改正の件についても話し合った。退出後、直ちに忠正公の御墓参りをしてから帰宅。今日は酷く暑く、九十度近い気温であった。奥平数馬、佐藤寛作、山本清吉が話しに来た。佐藤は先日東京から戻り、濱田へと派遣されていたため、そちらの事情について教えてくれた。九時頃に、野村靖之助、三好軍太郎、南野一郎、小松謙二郎が来た。南野とは先日萩でも会っている。彼は最近山口に来たらしく、明日下関に帰る予定だ。奥平が泊って行った。記、平原平右衛門が来た。」
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日本初の温度計は、かの平賀源内が1765年に作ったのが初めてだとされている。これはおそらくオランダの資料を参考にしたのか、当時まだ主流であった華氏が使われており、それは幕末・明治初期の私の時代でもまだ同じであった。日本が摂氏へと切り替えるのは大分先、大正八年のことだ。
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