2021/06/03

明治四年四月十六日 (1871/6/3)

 雨。舟木を離れ、小月で昼食を取り、四時過ぎに下関に到着。今日は一時豪雨であった。常六で野村靖之助と河野亀之進に会い、伊東本陣の御堀を訪ねた。昨年の秋に御堀と別れてから二百日程が過ぎたが、その間に彼は酷く衰弱し、今や骨と皮だけになり果てていた。在りし日の壮健な姿を思い出し、私は哀れで堪らなかった。昔話をしている内に、どうも気が滅入ってしまい、暫し涙を流さずにはいられなかった。彼と別れてから、大田老人と毛利左門を訪ね、また鈴木にも会った。八時過ぎに菊谷の……に泊まった。小松健二郎と藤松多之助が訪ねて来た。池良も来た。記、内田助七が日田の近況について話しに来たので、私は自分の愚案を託し、彼を小倉に派遣した。」

==========

御堀は私より一回り若い偉丈夫で、私同様、江戸の弥九郎先生の道場で塾頭を務めた経歴の持ち主だ (写真中央、ちなみに一緒に写っているのは山縣、市君、品川と時山だ)。禁門の変、下関戦争の両方に参加した後、市君と品川と一緒に御楯隊を結成し、東行の挙兵に加わり活躍した。

維新後には、山縣や西郷従道と共に欧州視察に派遣されるなど、輝かしい前途が約束されていた。だがその旅中に肺の病に罹ってしまい、二年と経たぬ内に、齢僅か三十一でその人生を終えてしまった。人生の如何に儚きことか……



0 件のコメント:

コメントを投稿

明治四年五月十三日 (1871/6/30)

「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの...