2021/04/16

明治四年二月二十七日 (1871/4/16)

 「晴れ。杉、野村、小川と大吉に会いに行ったが、主人が不在であったので、新斎橋通りに出て、河吉の所で本を購入した。また、主人の秘蔵の一品である竹田作の掛け軸を拝見した。そこから山中屋に行き、数十の書道と水墨画を鑑賞。二時過ぎに山田市之丞(顕義)を訪ね昼食を共にした。その後、舟で桜宮に向かい、川沿いの桜で花見をした。舟中には酒も茶も無く、ただ美しい景色のみを純粋に楽しんだ。絶妙であった。桜宮の川べりを散歩していると、私はふと、1864年の秋にこの地で斃れた我が息子、勝三郎を思い出し、私は悲しみに押しつぶされた。それからはこの景色もただ切なく、孤独にしか見えなくなった。その後、遠藤謹助を訪ね、造幣局を視察した。帰り際に舟で北堀に寄り、川佐楼で酒と食事を楽しみ、十一時に藩邸に帰還。十二時過ぎに井田五蔵が訪ねて来た。彼は東京での状況を懸念しており、朝廷が不良の輩共を一掃し、管中を整理し、凛然たる威厳を取り戻すことを望んでいた。朝廷の現状については、私も思うところ、口を開くのも辛いことも多い。私の最近の心痛は名状しがたいものだ。」

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勝三郎は私の姉、八重子の子で、私の最初の養子だ。十七歳の若さで禁門の変に参加したが負傷……敵の捕虜になることを良しとせず、大阪桜宮の舟中で潔く自決した…… 桂の名に恥じぬ、私の誇るべき息子だ。今は私と共に京都の霊山に眠っている




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明治四年五月十三日 (1871/6/30)

「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの...