「曇り。来客山の如し。松田京都大参事も態々大阪からお越しになり、私達は時事を議論した。松田は十年来の知己だ。山縣、山田、三好と会議を開き、御親兵やその他将来の課題について議論し、新たに着手する事々の計画を立てた。河内宗一郎が、会津人の日下一郎をを連れて来た。日下は私に身上を託すとのことであったので、私は吉井と相談し、今日、吉井宛の紹介状と共に送り出した。河野は毎日訪ねて来てくれている。佐々木と松本も来た。記、西郷信吾(従道)が話に来た。大阪の権典、石田太郎も来た。五兵衛に張秋谷の画の表装を依頼した。」
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維新後、私は有能な人材は、出自を問わず誰でも採用しようと可能な限り努力したが、それでも会津の人々には不要に肩身の狭い思いをさせてしまったと悔いている。そんな中、日下は逆風も厭わず、持ち前の意志の強さで機会を掴んだ立派な奴だ。私が会った時僅か二十歳であった彼は、鳥羽伏見・会津・函館と連戦の後、維新後に名を変え、長崎や大阪で支援者を求め、ようやく聞多の知遇を得ることに成功し、後に岩倉使節団に参加する。帰国後は内務省や長崎・福島県知事、外国大使等を歴任。そして後には渋沢とも協力し故郷に岩越鉄道を開通させることに尽力した、会津出身の出世頭の一人だ。ちなみに日下(くさか)と言う名は、会津の出自を隠し、長州人のフリをしようとして、久坂(くさか)玄瑞から連想してつけた名前だという説があるが、さて本当の所はどうなのであろう……
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