2020/12/19

明治三年閏十月二十七日 (1870/12/19)

 「晴れ。九時に参朝、三時に退出。板垣を訪ねたところ、福岡も予期せずそこに居た。その後、伊東寛斎と共に、アメリカ人の医者に診察を受けに向かった。帰り道に、明日東京を発ち、数日の内にアメリカへと向かう予定の伊藤芳梅(博文)を訪ねた。木梨平之進も彼に同行することを決意したらしく、昨日私の家を引払い伊藤の元へと移動していた。木梨は有志の士であり、私の旧友だ。だが体が弱く何度も死にかけていたこともあり、夏の間東京へと来るよう勧めており、それで私の家に滞在していただのであった。典医である伊東が木梨のために出来る限りのことを尽くしてくれたおかげで、彼の体調も改善し此度の旅を決意できるようになったのだ。私としても嬉しい。十時前に帰宅。」

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木梨君はこの渡航で俊輔と仲が良くなったようで、その縁もあってか、後には聞多の百十国立銀行設立にも携わったのだとか。私も頼まれて口座を作りはしたが、後に倒産しかけたのには閉口した。結局、聞多の金策で際どい所は逃れたようだったが…… 

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明治四年五月十三日 (1871/6/30)

「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの...