「暁雨、風もようやく落ち着いてきた。六時に錨を上げ、昨晩初めて灯がともされた三ヶ本へと向かった。灯台にも登り、見分した――これは皇国第一の品で、途轍もなく優れた代物だ。八時過ぎに下田に戻り、十時過ぎに錨を上げて蓮台寺にある……宿へ向かい、温泉に閑静な時を過ごした。ここにはこれまで二度ほど来たことがあり、一度目は十七年前、二度目は十六年前であった。十七年前はプチャーチン提督に指揮されたロシアの軍艦が沖に来ていたときのことで、彼の船は津波に沈められたのであった。下田の家々も全て、この波に沈められ、千人近くが命を失った。宮田の守備隊に配属された私と中村百合蔵は、蓮台寺にしばし滞在していた。この旅で、私は箱根山脈の中で大地震を経験したのだ。十六年前は浦賀で商船に乗ってここまで来ており、再び蓮台寺に一泊してから、戸田へと向かったのであった。プチャーチンは前年にスクーナー艦(帆船)を造調しており、私は長州もこの例に倣うよう建言し、二人の船大工を雇い長州のためにスクーナー艦を作るように命じていた。諸藩の中でも一足先に造船や海軍を追求することを唱えたの我が藩であった。当時、このような軍艦を作り得た藩は皇国内に一藩二藩しか無かった。あの旅で下田に来ていた私のために、中島三郎助は色々と周旋してくれたのであった。三郎助と彼の二人の息子達は昨年、函館での戦で命を落とした。私は常に彼の先見の明を尊敬していた。だから昨年、主君の狂気のせいで彼が道を誤ろうとしていると感じたときには、なんとか彼を探し出し、時勢について忠告しようとしたものだ。だが時既に遅く、彼はすでに函館に発った後であった。これは私の一生の遺憾だ。この十六年、十七年、言葉では表せないほどに何もかも変わってしまった。私が今日まで生き延び、この地に再び戻ってくるなど、まったく予想できなかった。どうすれば君父様(毛利元親)の大恩にお返しが出来るのか、私にはわからない。イギリス人のサトウが四時前に来た。正親町三条卿や大久保等と共に下田まで川を下り、半田屋で飲食を楽しんだ。十時過ぎに船に戻った。」
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中島三郎助はペリー来訪時に身分を偽ってでも黒船に乗り込み、交渉をする傍ら船の機構を調査し、更にはその学びを生かして造船や航海に携わるなど、素晴らしく柔軟で行動力にあふれた人物であった。もし彼が生きて新政府に来てくれていたら、一体どれほど貢献してくれたことか……
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