2021/03/19

明治四年一月二十九日 (1871/3/19)

「晴れ。朝、県知事の中山が来た。大西郷も来た。板垣大参事も来た。小川からの手紙が届いた。プロイセン人に贈り物を頂いた。山田の手紙も届いた。小川大属と吉井民部大丞宛に手紙を出した。山縣素狂(有朋)が話しに来た。昨日ニューヨーク号が港に着き、今日四時に出発。昨夜、林少丞が会いに来て、私の護衛に兵部省が派遣した十人の兵隊達がこの船に乗って横浜からやって来たと伝えてくれた。参議をこれ程までに重んじるのは宜しくないと、私はこの朝令を頑なに断ろうとしたが、最終的には受け入れざるを得なかった。四時に乗艦、五時過ぎに錨を上げた。」

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倒幕佐幕関係なく、暗殺が日常茶飯事であった幕末の動乱期を生き抜いた我々からすると、物々しい護衛達に囲まれて過ごすのは若干見苦しい、というのが私の本心であった。これは西郷や大久保も同じ考えであったようで、人は常に護衛をつけるよう彼等に忠告し、時には無理やり付いて回っていたが、彼等自身はこれを不要と考えていた。大久保などは内務卿になった後ですら大した護衛をつけておらず、それが原因で遭難することになったわけだが、私が彼でも同じことをしたであろう

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明治四年五月十三日 (1871/6/30)

「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの...