2021/03/21

明治四年二月一日 (1871/3/21)

「曇り。強烈な北風。六時過ぎに横浜に到着したが、上陸は困難であった。正二郎に会いに三好と共にシュミット宅に向かう。今夜は通商司出張所に宿泊。こちらは以前、遠藤謹助の公宅であったが、今は坂田通商権正の住まいだ。坂田は肥前の人間だ。池上が話しに来た。内海も来た。他にも来客多し。私は神戸で船に乗る前から気分が優れておらず、無理を押して港に来なくてはならなかった。今日もまた気分が優れず、卒倒しかけた。覚悟を決めて、なんとか意識を保っていた。発熱と頭痛、両方に悩まされた。医師の羽賀……が来診。斎藤新太郎と藤井八十衛も来た。」

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正二郎は私の妹、治子と栗原さんの子で、跡継ぎの生まれなかった私の養子だ。(正二郎の前には勝三郎という養子が居たのだが、彼は惜しくも禁門の変の折に自刃して果ててしまった……)正二郎は聡明な子で、この当時は、私がふとした機に会ったシュミットなる異人の元で語学研修に励んでいた。正二郎は後にイギリスに留学、更にはドイツの兵学校にも留学したのだが、病に倒れ、僅か二十四歳でその生涯を終えてしまった。今思っても涙せずにはいられない……ちなみに次に木戸家を相続した孝正は実は正二郎の兄であり、正二郎は兄を養子とする非常に奇妙な経験をすることになる

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明治四年五月十三日 (1871/6/30)

「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの...