2021/04/09

明治四年二月二十日 (1871/4/9)

 「晴れ。野村素助と藤井勉三が話しに来た。三隅市之進が来た。三隅は善良で将来有望な若者だ。私はだからここ一年、洋行したいという志を持つ彼の手助けをしてきた。それが此度、彼が民部省によって、米国に農業を学びに行く一人に選ばれたので、私は彼と諸事を打ち合わせた。大久保と山縣に手紙を出した。大久保の返答には、岩倉卿との会合の内容が書かれており、それを元に私は岩倉卿の所へ向かい数刻議論した。久留米と福島両方からの報告があり、どちらの場合でも浮浪の徒が暴動を扇動していたとのことであった。杉猿村(孫七郎)が来た。岩国の知事御兄弟も来られた。五時過ぎには容堂公もお出ましになられ、我々は酒を飲みつつ雑談した。十二時に解散。」

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容堂公とは藩も違えば年も出自も違っていたが、なぜか非常に馬が合い、良く会っては酒を飲み交わしたものだ(私も大分いける口だが、容堂公は私が下戸に見えるほどに酒好きであった)身分の低かった者達が実権を握ることになった新政府のことは余り好いておらず批判的で、また和服以外も着ようとはされなかった。だが時勢と言うものは良く理解しておられ、例え泥酔し気勢を上げ現状を憂いても、版籍奉還や廃藩置県と言った肝心な事柄については協力的であられた



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明治四年五月十三日 (1871/6/30)

「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの...