「晴れ。十時に参朝。福島県で頑迷な人民達による蜂起が起きたと聞く。元より兵部省は、越・奥羽に軍隊を派遣しておくことを提案していたのだが、今日もこの議論が再燃した。三時に退出、神田邸に行き長府の三吉慎蔵と会い、知事公の御学問について議論した。その後約束していた通り後藤を訪ね、これに板垣退助も加わり、一緒に飲み語った。十一時に別れた。」
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福島県川俣付近で起きたこのような農民騒動は、明治初期には日常茶飯事の出来事であった。凶作で年貢の納入が難しかったところに、催促厳重が極めたのが原因だとされている。厳密な数は分からないが五百人近くの集まりが官邸を襲撃し、打ち壊しや放火をしたというのだからたまったものではない。この事件後には三十人近くが捕らえられ、絞首や杖刑に処された。これが明治六年以降になると、蜂起の動機も経済的なものから政治的なものに変わり、士族達による反乱の方が増えることになる。兎に角明治最初の十年は安定とは程遠く、多くの血が流れた。我々新政府重鎮達の心労も、察してほしい……
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