2021/06/01

明治四年四月十四日 (1871/6/1)

 「曇り。井上世外(馨)と三浦梧楼が来て、東京の近情について話してくれた。福原内蔵之允、中島四郎、久保断三、野村素介も訪ねて来た。東京の友人達からの手紙が届いた。佐畑健助も来た。四時過ぎに下関から飛脚が到着し、野村靖之助の手紙を届けてくれた。御堀が危篤で、一目私に会いたいと願っているから、早急に下関に来て欲しいと野村は促していた。山田市之丞(顕義)は昨日下関から戻ったばかりであり、今日来て御堀からの伝言を伝えてくれた。そこで私は明日出発することを決意した。世外と三浦は私に東京に戻ることを強く勧め、また三条岩倉両卿にもそのような指示をされていた。更には大久保からの手紙も届き、また今日は、口伝とは別の岩倉卿からの手紙も届き、そこには私に東京に戻るよう書かれていた。先日東京で着手された計画について知らされ、私はこの国の前途の明るさに思いを馳せ、大いに喜んだ。しかし今日、日田県から山根秀輔の手紙が届き、そこには東京の意図と相反する形で行われた薩摩の大山格之助の派兵の内容が記されていた。このような中央と地方、頭と尻尾の齟齬のせいで、人々は一体我々がどちらの方向に向かっているのか全く混乱してしまい、結果として大村や廣澤の遭難のような不幸な事件が起きてしまうのだ。政府が厳しくあるべきか寛容であるべきかという問いは良く議論されているが、私は本質的な問題は我々がいかにして条理を貫くかということだと思う。緩厳よりも、条理の方が肝要だ。条理を緩厳で語ること自体、非論理的だ。権力者達の間でも意見は一致していないことであろうが、もしこの危機的状況を通じて、一貫性のある方針が取られなければ、我々はきっと昨年と同じような失策をすることであろう。故に私は急ぎ東京に戻り、一貫性のある方針を取るよう勧めたいと考えている。」

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明治四年五月十三日 (1871/6/30)

「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの...