2021/06/10

明治四年四月二十三日 (1871/6/10)

 「晴れ。宮口清吉が来た。今朝、横山が正明の部署へと帰った。江木と宮口と共に、黄波戸を経由して日置に向かい、井上半三郎を訪ねた。何杯か飲みつつ語り合った。彼の住まいは閑静な地にある。今日は正二郎も連れて行った。半三郎は私達を見送りに途中まで同行した。江木は先大津の部署に帰った。黄波戸の中村市右衛門の所で小休憩。市右衛門は先大津一の富豪だというが、彼はこの国南方の平民達よりも質素な生活を送っている。市右衛門の世話になり、黄波戸から正明まで移動する漁船を手配してもらった。船頭の二人は、お年を召された兄弟であった。年配の長兵衛は七十八歳、若い方の……は七十三歳で、二人とも極めて壮健であった。彼等は昨年、三人の子供達を難船で失ってしまったと言う。私は哀れに思い、去り際に幾許かの金子を渡した。深川に戻って来たのは十時近くであった。記、今日から梅雨の季節が始まる。斎藤健蔵が幾つかのちまきを携えやって来た。健蔵と言えば、十三年前に私が秘境の谷を訪ねた時に斎藤宅に泊まった時に初めて会ったのであった。当時私は北浦の視察をしており、深川まで来たところで、師吉田松陰が江戸で捕縛されたとの報せを聞き驚愕したものだ。私は萩へと戻り、その年の秋、江戸に行き松陰先生の亡骸を埋葬した。この時のことは、未だに話すのも辛い。」

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松陰先生ほど、多くの尊敬を集める一方、間違った理解をされている人物も居ないであろう。私達は年も近く、先生生徒というよりは兄弟のような間柄ではあったが、彼は真に師と呼ぶに値する男で、温厚さの奥に、大義の前に同志の命も、自らの命でも投げ打てる過激さを持っていた



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明治四年五月十三日 (1871/6/30)

「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの...