2021/06/26

明治四年五月九日 (1871/6/26)

 「晴れ。河村亀之進が来て、若き有志達の育成について議論した。七時過ぎに出仕、その後忠世公の御墓参りに向かった。それから御裏に向かい、御堀から頼まれた二つの双眼鏡を内藤忞翁を通じて両御夫人に御渡しした。三時に退出、山縣と共に片山の所に向かい小休憩。青木郡平宅前を通り、井上の元へと向かった。高杉、大和、長峯の未亡人が集まっていた。福原内蔵之丞、児玉七十郎も来た。今日藩廟では、木梨撫育大属と糸賀大属と共に、会計局と撫育(貯蓄投資)を統合する件について議論し、我々は藩の方針が人々の仕事を妨げるようなことがあってはならないという点で合意した。井上は最近特に藩の会計を軌道に乗せるため尽力しており、今日私がこうして藩廟に出仕したのも、彼の頼みによるものであった。そこで私は彼に、今日の藩廟での次第について伝えておいた。九時前に帰宅。奥平健介と内垣末吉が泊りに来た(末吉はここ数日ずっとだ)。下関の池田良助が来泊。御堀耕助は北川清介の次男を養子にしたいと欲し、この願いを私に託した。私は昨日、勝三郎に北川宛の手紙を持たせたのだが、今日北川が山口まで来て、許諾すると伝えてくれた。次男の名は金八で、年は十一歳だ。」

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撫育局というのは、長州藩の知られざる財源で、維新の凡そ百年前、重就公の指示の元設置された機関だ。今で言うところの藩の『特別会計』の役割を担っており、余剰資金を蓄積するのは無論、櫨蝋の生産、塩田や田畑の開発、金融業や倉庫業と言った事業に投資し、莫大な利益を産むことに成功した。

この資金無しには、幕末に西洋から大量に武器を仕入れるなど、到底無理だったに違いない。撫育には俊輔も聞多も私も深く関わっており、明治政府や皇室御料局設置の際などにも、その知見は活かされることになる。

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明治四年五月十三日 (1871/6/30)

「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの...