「晴れ。奥平健助と内垣末吉が小郡に向けて発った。宮木貫一郎が来た。彼はもう何年にもわたり測量を学ぶことを欲しており、その為に東京に出たいと願っていた。ここ数日、彼は頻繁に私の支援を求め来ており、私はこの件について山縣弥八に相談していた。我々は明倫館を通じて彼を東京に送ろ手筈を整えようと考えている。十一時に出仕、十二時に退出。忠正公の御墓参りをしてから、萬代屋と片山に寄り、二時過ぎに帰宅。山縣弥八、正木市太郎、井上半三郎、天野順太、奥平数馬、宮木直之進、大津四郎右衛門、片山次右衛門が来た。夜になり解散したが、奥平は泊って行った。幸坂の姪、直次郎と正二郎が萩から戻った。夜半、腹痛で苦しむ。清吉も吐き戻していた。夜に時折り細雨。」
2021/06/27
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明治四年五月十三日 (1871/6/30)
「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの...
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「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの...
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「晴れ。岡義右衛門、竹田庸伯、岡了亭、山本清吉(またの名を宮口)、柴田矢之助と長府の……が来た。清吉と矢之助が、柴田矢之助の息子で、私に同行し東京に行く予定の甚之丞を連れて来た。十時過ぎに出仕、東京まだ同行する者達の嘆願書だけを出してすぐに退出。忠正公のお墓参り。そして萬代屋で...
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「晴れ。朝、大久保が国元の事情について話しに来た。昨年の冬、大久保と私は勅命を受け、薩長の支援を確約するために各々の郷里に向かった。だが予期せず国元での反乱に遭い、最後は武力で兇徒達を抑えざるを得ず、結局元の目的を達成することは叶わなかった。我々は問題を先延ばしにしてきたが、今日...
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