2021/01/12

明治三年十一月二十二日 (1871/1/12)

 「曇り。十時過ぎに染井に向かい、帰途、後藤を訪ねたが不在であった。山尾の新居を訪問し、四時過ぎに帰宅。篤信斎(斎藤弥九郎)がお越しになられ、南貞介も来た。貞介は私の周旋の結果、近日イギリスに向けて出発する予定になっている。今日は私に挨拶をしに来たわけで、記念にと揮毫をせがまれた。彼は一泊して帰った。」

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貞介は東行の従弟で、私もよく目にかけてやっていた。彼についてはイギリス滞在中の面白い逸話が二つある。彼は船旅の最中に知り合った欧米人との縁から、とある銀行の役員になる機会に恵まれ、我々岩倉使節団が後程欧米を訪問した際などには、自慢げにこの銀行に預金することを勧めたのであった。

岩倉卿や大久保、私も含めた多くの使節団員は彼を信頼して私費を預けたのだが、なんとこの銀行は折悪く倒産の憂き目に遭い、我々の預金は海の藻屑と消えたのであった。幸いにも金庫番の田中光顕君が預金に反対してくれたお陰で使節団の公費は安全であったが、なんともヒヤリとする事件であった。

もう一つの面白い話は、彼がロンドン滞在中にエライザ・ピットマンなるイギリス婦人と正式に結婚をして、これが日本人としては初の国際結婚だったという話だ。だがエライザ嬢は貞介を日本の富豪だと思っていた節があり、また貞介は貞介で『ハーフの子供が欲しいんです』などと不純な動機で結婚したらしく、なんとも愛に欠ける婚姻であったようだ。更にこのエライザ嬢は中々の激情家で、後に貞介が聞多に書いたところによれば、ある時などは貞介を日本刀で斬り付けることもあったと言う。結果、二人は十年ぐらいで別れてしまった。

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明治四年五月十三日 (1871/6/30)

「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの...