2021/01/27

明治三年十二月七日 (1871/1/27)

 「晴れ。雑多な来客。日田県への出兵について話しに、山縣素狂(有朋)と高屋……が浪華から来た。この問題についてどう対処するかは、先日岩倉卿の所で戦略を定めていたので、今日は指示の詳細を詰める為に岩倉卿亭へと向かった。最近、浮浪の徒が浪華に到着し、僧侶や不平の輩達を集めて日田県の人民を扇動し、一揆を引き起こして県庁を襲い、また周防の大島郡にも攻め入り金や穀物を強奪したとの噂を伺った。この連中は昨春長州で反乱を起こした大楽隊や他の隊とも繋がっているとの話だ。如何にこれらの連中を取締るか、岩倉卿と議論した。夕方、前田松閣が来た。彼とは二回ほど会っており、前回京都に来た時には私に治療を施してくれたのであった。槇村と藤村に頼まれた揮毫を仕上げた。今夜は中村楼に井上夫人を招待しており、私は五時頃に祇園へお参りしてから、彼女に会いに茶屋へと向かった。三味線と舞は酒をさらに旨くした。山縣と高屋も加わり、私は十時過ぎに高屋の泊まっている松力に向かった。旧友の君遊が居て一時の談笑を交わした。十二時に宿に戻り就寝。記、大久保は今朝出立。」

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山縣は面倒事に巻き込まれがちな質で、当時も引っ切り無しに戦に駆り出されていた。彼の後世の評価は汚職・反政党・反社会運動といった否定的なものが多いが、あれはあれで人の面倒見が良く、律儀で、新しいものに飛びつかない慎重で、良い奴であった。俊輔とは正反対の気質だが仲は良かった



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明治四年五月十三日 (1871/6/30)

「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの...