2021/02/11

明治三年十二月二十二日 (1871/2/11)

 「朝、内藤玄泰の老母がお越しになられた。私は九時過ぎに舟木を発ち、十一時に山中を越え、一時過ぎに小郡に到着、小泉屋で休憩。北川清介が来た。秋元新蔵も訪ねて来た。鴻城(山口城)には三時過ぎに到着。役人達はもう退出後であったので、私は柏邨大参事を訪ね、六時に帰宅。中山澄江と……利兵衛が小郡近辺まで迎えに来た。」

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秋元はいわゆる勤王庄屋で、幕末には値千金の働きをしてくれた。慶応元年に東行が挙兵した折、長州藩内での内戦に勝てた一因が、秋元を含めた庄屋同盟だ。秋元は農家の次男三男をかき集め、自費で劇剣場を建て剣を習わせ、農兵隊を作った。国を憂いていたのは侍だけではなかった

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明治四年五月十三日 (1871/6/30)

「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの...