「空晴れ渡り、空気は新鮮で、新年の寒さは骨身に堪えた。一面の雪は陽の光を映し、絶妙な光景を生み出していた。貞永の一家が集まり、藤松と私が加わり、皆でお屠蘇の盃を傾けた。猿村(杉孫七郎)と私はそれぞれ揮毫と水墨画を試み、それから新年祝いの一品を合作で書き上げた。『屋根高く雪は朝日を映し出している。今年初の東風が吹き、開け放たれた扉からこの目に映る素晴らしい景色 ― 海、山、川 ― 全ては大君のお陰だ』正午になると軍艦が祝砲を放ち、私は友人達と共に藤松多之助の所に向かった。十七年前、伊勢小淞と浪華に向かう道中、我々は強風に拒まれ、三田尻に数日滞在せねばならなかった。あの時、伊勢に誘われ、私は初めて藤松の所に行ったのであった。我等の国は、当時平穏なものであった。これだけの月日が過ぎた今、今日またこうして宴を開けるとは、人の一生とは予想できぬものだ。我々は過去を想い悲しんだが、同時に幸せでもあった。友人達と飲み、語り、私はここ数年新年に感じたことのない閑静を感じることが出来た。殊更堪える寒気を感じ窓を開けてみれば、空には雪の欠片が浮かび、庭の竹をに積もったそれはまるで花が咲いているかのように見えた。私はその場でこう吟じた。『短い竹の杖を手に、私は友の家を訪ねる。陽の光が冷たい雪の上に影を落とす。お屠蘇を飲み終える前には、庭の竹は突如咲き誇っていた』夜になり、楫取と同町が遊びに来て、我々は飲み、語った。」
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猿村(杉孫七郎)は長州人の中でも、漢詩や書の名人という点で最も風流人な男であった。余り知られていない話だが、彼は東行が参加し損ねた幕府の文久遣欧使節団(1861年)に雑用係として加わることに成功し、その報告書を読んだ周布さんが例の長州ファイブを留学させることを決めたのだ。ある意味、俊輔、聞多、山尾、遠藤、彌吉にとっての恩人と言えよう。教養があり、かつ気の置けない仲間と言うことで、彼には宮内省で頑張ってもらっていたが、それよりも何よりも、彼と酒を飲み交わしながら漢詩を吟じ、書を競うのは私の一番の楽しみであった
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