2021/02/20

明治四年一月二日 (1871/2/20)

 「晴れ。貞永蕉窓と森寛斎が来た。寛斎とは昨春、山口城で会ったのが最後だ。彼は京都に戻るところだという。家主の多之助が私の揮毫を所望し、私は彼の為に何作か書き上げた。寛斎にも私の手による送別の書を求められた。『昨年、我山口城で私を見送ったのは君であった。今年は私が華浦で君を見送っている。私達は流水のようにまた別れ、また会う。次に京都で再会出来るのはいつの日のことであろう』私は浮かんできた言葉をそのままに、筆を走らせた。食事と酒を嗜んでから、一時過ぎにその場を発ち、興丸公(毛利元昭)のお宅まで謁見に向かった。その後、楫取と同町に会いに県庁に行き、そこから貞永蕉窓宅に向かった。一日中、杉と坪井が付いてきた。楫取、同町と山根が泊りに来た。」

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寛斎は勤王画家とでも言える存在で、長州藩の京都における密偵の役割を果たしていた。絵師の身分を生かして同志達の密会の場を設けたり、京都の様子を伝えたりと、情報戦で活躍した。欲の無い好人物で、維新後に新政府で働くよう私が勧めたのも辞退し、絵に専念し『明治の応挙』として大成した


寛斎の絵は情趣的で、内国勧業博覧会などでも大層好評であったが、志士時代の彼の面白い作品と言えば、やはり人体的異人図(京都大学付属図書館所蔵)であろう。攘夷志士が悪ノリで依頼した射撃の的で、ご覧の通り無数の穴が開いている。これを嬉々として撃っていた者達の多くは、池田屋の変や禁門の変で命を落としてしまった。一方生き残った我々は開国に舵を取り、積極的に異人達と交流し始めた……かつての同志達が今日の我々を見たら、一体なんと思うのだろうか?この絵を見るたびに、私はそう疑問に思わずにはいられない



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明治四年五月十三日 (1871/6/30)

「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの...