「曇り。七時前から小雨。十時前に神戸に到着。上陸したところで、長門屋から廣澤遭難の報せを受ける。驚愕と悲憤に言葉が出なかった。長門屋で大久保と西郷に会い、共に布引に向かった。廣澤の変のおおましについて書かれた槇村の手紙が届いた。昨冬、廣澤は一枚の手紙を私に送った。その中で、彼は時勢に対する義憤、彼自身の強い責任感を表していた。私はこの手紙を今一度取り出し、何度も読み返し、彼との永別を想った。落涙を抑えられるず、惨憺たる思いであった。王政一新の際、廣澤は新政府の中で私を支持してくれた唯一の男であった。今日この報に際し、悲しみの深さは自身の兄弟を亡くしたよりもさらに深かった。河村兵部大丞、中山神戸知事、その他の来客が次々と訪れた。小川彦右衛門が手紙を寄こした。河村宗一が私に直に会いに来た。政府の前途は元より、私情においてもこれ以上に辛い試練は無い。私はかねてより、政府での人情が軽薄になっており、このような事態を危惧していた。これを機に、同志達が全力でこれらの悪を掃討することを誓ってくれることを願った。明日、東京に戻ることを決めた。東京から戻ってきた殿川一助が近情について語りに来た。山縣篤蔵はここで私を待っていた。記、兵部省が私に護衛を寄越した。辞退しようとしたが、これは許されなかった。今日、肥後大参事の安場逸平と太田黒岩太郎が訪ねて来た。私は当地の知事、中山と話している最中であったので、その場では彼等とは会わなかった。代わりに私は彼等の宿を訪ね、しばし話しこんだ。彼等の話では、肥後藩は今は安定し、政府を奉り、国家の振興を助けたい想いで一団しているとの話であった。廣澤遭難の話を聞き、彼等は政府の衰絶を憂い、真摯に心内を打ち明けてくれ、私は感動した。日夜、兵士達が私の部屋を護衛してくれた。」
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廣澤は無二の友であった。同い年ということもあり、彼とは家族ぐるみの付き合いで、何でも率直に話すことが出来た。私は強い意見が原因で、大久保や他の連中と衝突することも多々あったが、そんな時にはいつも廣澤が緩衝材となり間に入ってくれた。彼の死は早すぎ、私はまた一人残された……
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