2021/04/18

明治四年二月二十九日 (1871/4/18)

 「晴れ。朝の内に散歩し、外国店で時計やその他雑貨を購入。十時過ぎに丁卯艦に乗り込むと、富士艦の船長が訪ねて来た。十一時過ぎに錨を上げ、四発の祝砲を上げた。富士艦は十五発の祝砲を返した。丁卯艦が四発しか打たなかったのは、弾薬が不足していたからだ。なんでもこの儀礼はつい最近定められたのだという。私も新政府の一員だが、この一件については知らなかった。我々一行に加え、田中敏助も大阪で乗艦してきた。」

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祝砲は元々イギリス海軍が発明した儀礼で、『弾倉を空にしましたよ』とこれ見よがしにすることで敬意を示すのが由来だという。何発撃つかは賓客の位の高さにもよるため、我々岩倉使節団が後に洋行した際には、毎回新しい国に到着するたびに受けとる祝砲の数の多寡にやきもきさせられたものだ

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明治四年五月十三日 (1871/6/30)

「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの...