2021/04/24

明治四年三月五日 (1871/4/24)

 「雨。山根秀輔が九州事情について話しに来たので、私は政府の現状と、此度の九州出兵の意図、また時勢の流れ全般について語った。秀輔は近々巡察使一行の一人として九州に発つ予定だ。竹田佑伯、青木群平、瀧弥太郎が訪ねて来た。私は温泉に一度浸かってから十一時頃に宿を発った。途中に阿部平を訪ね、一時に自分の宿に戻った。宮木直蔵が来て、陪臣と卒を廃止し士族に統合し、更には士農工商を廃し、皆国民とすべきだと論じた。これこそ正しく私が平素から主張してきた話であり、我々は如何にしてこの案を実現にこぎつけるかを議論した。木梨精一郎が陸軍局の内情と軍隊の課題点について話しに来たので、私は出来る限りのことをすると約束した。品川弥五郎も来訪、三時過ぎには山縣と井上も来た。我々は一緒に宿を出て、萬内屋、上山家、小幡家、柏村家を過ぎ、大津の所へと向かった。山縣と他の者達が帰った後、私は酒と食事を嗜んでから七時過ぎに宿に帰り、東京宛の手紙をしたためた。それから山縣を訪ね、十二時に就寝しに宿に戻った。」

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明治政府の朝令暮改の一つが『卒族』階級だ。所謂、同心や足軽など、下級家臣達を士族と区別するために明治三年に作られた階級なのだが、およそ二年後には廃止された。近代の戸籍制度は明治五年に始まったのだが、その時の統計にはまだ残っており、卒族は士族のおよそ半数であったことがわかる

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明治四年五月十三日 (1871/6/30)

「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの...