2021/04/05

明治四年二月十六日 (1871/4/5)

 「曇り。二三件、内密の件ついて相談するために、岩倉卿がお越しになられた。杉猿邨(孫七郎)が来た。米田と安場の両大参事も来た。山縣素狂(有朋)も話しに来た。時田少輔、三吉慎蔵、長親兵衛も来た。一時過ぎに、四藩建言の進捗状況を相談に大久保参議を訪ねた。その後、杉に会いに神田邸に向かい、四藩建言について大久保と議論したと報告し、我が藩での布告についてや、因幡と備州関係について等を議論した。帰り道に、宍戸刑部少輔を訪ね、六時過ぎに帰宅。夜、杉山と山縣と話し、此度の新聞局開局における私の意図を語った。遠境の人々にも、諸藩で行われている、広くは世界で起きている改革について広く知らしめ、時勢近情について理解を深め、開化を促したいのだ。福井も同席していて、会話に参加した。今日、神田邸から寺内真一を家まで連れて来た。」

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この年刊行された『新聞雑誌』や、『東京日日新聞』(後の毎日新聞)からも分かる通り、私は文明開化における新聞の重要性をよく理解しており、その普及を積極的に後押ししていた。だが政府に好意的な御用新聞が主流であったのは、明治でも僅か最初の数年だけの話で、自由民権運動が盛んになった明治七年以降は政府批判が目立つ新聞も多く出回り始め、政府は言論統制を始めなくてはならなかった。言論の自由と言った概念は、当時上り調子であったアメリカ合衆国でも良く叫ばれたものだが、明治初期の不安定な時代、誰しもが新政府に不満を抱いていた時代には劇薬以外の何物でもなかった……



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明治四年五月十三日 (1871/6/30)

「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの...