2021/04/07

明治四年二月十八日 (1871/4/7)

 「晴れ。十時に参朝、三時に退出。伊東寛斎を訪ね、その後、留守中である伊藤芳梅(博文)の家を訪ねた。米国に手紙を送る方法があるとのことであったので、芳梅と甥の彦太郎宛に手紙を書いた。東京権大参事の平岡を訪ね、数刻にわたり時勢を議論し、また(廣澤の)暗殺者どもの捜索状況についても話した。七時頃に帰宅。」

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俊輔はこの当時、福地源一郎や芳川顕正と言った面子と共にアメリカまで出張中であり、日本の貨幣制度を今後どのように発展させるかを研究している途中であった。女好きで軽いイメージが先行している俊輔だが、あれはあれ、実はかなりの勉学家で、良く本を読み、学者と議論し、それを現実世界での制度に落とし込むことを得意とした、正に明治時代の官僚の鏡と言える奴であった(彼自身が一番誇りに思っていると私に言ったのは、後の大日本帝国憲法の研究と制定だ)この渡米でも、俊輔の建議により新貨条例が制定され、日本は世界の標準となり始めていた金本位制に乗り遅れずに済んだ


彦太郎、後の孝正は正二郎の兄で、栗原さんと私の妹治子の長男だ。彼は当時まだ十六歳であったが、日本近代化の責務を背負い、鉱山学を学びにアメリカまで留学していた。彼の在学していたアマースト大学は名門中の名門で、世界に対し門戸を開いており、日本からは他にも新島襄や内村鑑三と言った面々が在学していた。彦太郎は正二郎の死後、その養子になり木戸家を相続し、私の娘である好子と結婚したのだが、この結婚は好子が齢僅か十八で早世してしまったため、二年しか続かなかった……彦太郎、改め孝正は山尾の娘さんと再婚し、この二人の間に生まれたのが木戸幸一だ



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明治四年五月十三日 (1871/6/30)

「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの...