「晴れ。十時頃に山縣に会い、一緒に御老公の御住居へと向かった。御老公の体調は今朝悪化したものの、今は少し落ち着いていると聞かされた。一時過ぎに再びお会いに行くと、更にお元気になられているようであったが、この後どうなるのか、皆懸念していた。知事公は来月四日に東京に向けて発つ予定であったが、父君の御看護のため出発を遅らせる願出を出した。これを伝えるため、神代浪江が今夜東京に向けて出発した。私も、岩倉卿宛の手紙一通と、井上少輔、山縣少輔、三浦少丞宛の手紙一通を彼に託した。九州出兵の一件は薩摩藩が建言したものであったが、まだ一兵卒として派出されておらず、その為数多くの噂が囁かれている。言動の齟齬は人々の間に疑念を生むものだ。私は山根秀輔より報告を受けている、この件の現状について報告を行った。また本日、士族は申請すれば常職を解かれるという公布が行われた。この、私が提案した法令が失敗しないことを切に願う。もしこの法令が確立されれば、十年と経たぬうちに士族階級を廃止できると、私は疑っていない。藩廟を退出してから、徳山の遠藤と岩国の安田を訪ね、それから福原清介に会いに大和に向かった。山縣、坪井、奥平と大津が来て、一同は八時過ぎに片山の所へと戻った。山縣を含めた一同が、今夜藩廟に泊まることを決め、私は九時過ぎに御老公のお見舞いに向かった。御病気は一変し、非常にお苦しみのようであった。大参事も皆同席していた。朝の三時、四時、五時となるにつれ、御老公の苦しみは更に悪化し、見るに堪えなかった。全員が色を失っていた。」
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明治四年五月十三日 (1871/6/30)
「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの...
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「暁雨、終日曇り。横須賀を七時前に発ち、四時に下田に到着。今日も再び強烈な西風が吹いていた。三ヶ本に到着すると、海上から灯台を見たが、上陸は出来なかった。下田で下船し、半田屋で少し寛いでから十時過ぎに船に戻った。」 ========== この灯台がある神子元島は、伊豆下田港から1...
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「晴れ。三輪惣兵衛の所で岡に会い、そこから忠正公(敬親)の墓参りに向かった。杉を訪ね、小澤を訪ね、そこで予期せず井上世外(馨)に会った。世外は今日山口に着いたらしく、東京の近情と、三条岩倉両卿からの『直ちに東京へと戻るように』との指示を伝えてくれた。六時過ぎに帰宅。同じく山口に戻...
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「晴れ。朝、大久保が国元の事情について話しに来た。昨年の冬、大久保と私は勅命を受け、薩長の支援を確約するために各々の郷里に向かった。だが予期せず国元での反乱に遭い、最後は武力で兇徒達を抑えざるを得ず、結局元の目的を達成することは叶わなかった。我々は問題を先延ばしにしてきたが、今日...
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