2021/05/17

明治四年三月二十八日 (1871/5/17)

「曇り。五時過ぎに御老公が遂に御隠れになられた。この悲痛は言葉に出来ない。家督をお継ぎになられてから三十七年間、御老公は皇国内外の統治に御苦心なされ、その功績は寸紙には記しきれない。御老公は政府の御柱であり、石江家の復興を成し遂げられたお方だ。今日、この死が世間に報じられれば、その影響は万事に及び、人心に動揺を引き起こしてしまうのではないかと不安だ。知事公が御葬式の指示を出された。私は十一時前に退出し、四時頃に再び戻ってきたが、その頃には、皆退出した後であった。帰り道で柏村に会った。その後山縣の所に行き、九時前に帰宅。今日、宍戸敬宇と山縣素狂(有朋)からの手紙が届いた。素狂の手紙には、東京で行われている厳重な取り締まりの詳細が記されていた。」

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今日、松平公、伊達公、山内公、島津公は『四賢候』と呼ばれている。一方の御老公は未だに『そうせい侯』なる陰口を叩かれている……誠に嘆かわしい。常に主君として責任を背負い、有能な人材を登用した御老公は、常に誰が何と言おうとも、私にとって一番の賢候だ



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明治四年五月十三日 (1871/6/30)

「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの...