「晴れ。七時に出仕、十時に常栄寺山までの御出棺にお供した。埋葬は四時に終わり、少しの間城に戻った。御奥で御霊牌を拝み退出した。遠近を問わず、幾千人もの数えきれぬ人々が葬儀に参列した。市中の宿はどこも混雑していた。二州(周防と長門)の人民で、涙を流していない人間は少なかった。知事公と二人の御夫人に謁見した。心中の悲痛は深く、私は一日中上の空であった。記、明方に、野村靖之助から、御堀耕助が下関に戻ったとの報告を受けた。そこで小林武兵衛に李家文厚が戻って来たと伝え、三田尻に泊まる手配をするようにと指示を出した。」
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明治四年五月十三日 (1871/6/30)
「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの...
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「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの...
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「晴れ。今朝は近所の植木屋を散歩した。十二時にロシア人とプロイセン人ケンパーマンが来訪し、三時過ぎに去った。木梨、山尾、南も同席し、ヨーロッパの近状について語った。山尾と南と共に、近所で売りに出ている家を見に行った。四時頃に、神田邸で木梨のアメリカ行きについて話し、五時頃に帰宅...
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「曇り。西郷が訪ねて来た。私は一行と共に、板垣、福岡、下村に会いに藩廟へと向かった。……の案内で、我々は騎兵寮屯兵所と調練所での調練を見聞した。雨が降り始めたので、三時頃に宿に戻る。西郷とは門前で別れ、大久保を訪ねた。福岡が私を訪ねて来たが、私は不在だったので、彼は大久保の所まで...
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