2021/05/03

明治四年三月十四日 (1871/5/3)

「晴れ。強烈な西風のせいで、丙寅艦は昨夜の内に到着出来なかった。一日中全くすることがなく、詰まらなかった。半雲の僧侶が来訪し、私は彼に野草の半切を贈った。昨冬には、この僧侶によく似た趙スンの作を一幅貸していたのであった。私はこの一作に小さな印を押した。藤松も訪ねて来た。三時過ぎに、三好、野村、杉山と河野も来た。夜には、山根秀策が話しに来た。十二時頃に解散 ― その後、丙寅艦が到着したとの報せが届いた。妹の治子と、妻の松子も到着した。峯平吉達が、貞永のところまで私を探しに来た。」

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東行は第二次長州征伐の直前に長崎まで出向き、グラバーから軍艦を購入した。藩に無断でだ。彼はこれにオテントサマ丸と名付けたが、これが1866年、干支が丙寅であったこともあり、この艦は後に丙寅丸と改名された。東行は当艦を巧みに操り、幕府艦隊を相手に奇襲をしかけ、大勝を収めた

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明治四年五月十三日 (1871/6/30)

「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの...