2021/05/04

明治四年三月十五日 (1871/5/4)

「晴れ。五時頃に米屋で妹を始めとして数名と会った。そこから山城屋に向かい、五時過ぎに乗船、五時に(**原文ママ)下関に到着。そこから藩の荷會税へと向かい、渡辺と会い、網三のとところへと向かった。常六に泊まった三好が六時過ぎに私を訪ねて来た。我々は共に小舟で新地まで行き、招魂場を参拝した。去年設置された牌表には、国難以来の戦いで斃れた者達の名が、既に三百以上刻まれていた。当時を振り返り、私は惨憺たる気分になった。帰り際に新地に寄り、酒と食事を取った。十一時過ぎに、河野、杉山、能野と同じ舟で網三の所に戻った。詩、櫻木は越えても今年、咲きにしに、過にし人の面影もかな。遠田甚助が来訪。」

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治子は実の妹で、当時存命の数少ない家族の一人であった。心根は優しいが器量は人並みであったため、栗原さんという良縁に恵まれたことは非常に嬉しく思っていたのだが、夫を早くに亡くしてしまったのは不幸であった。息子の孝正、正二郎が二人共も欧米留学してしまい、寂しかったであろう

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明治四年五月十三日 (1871/6/30)

「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの...