2021/05/05

明治四年三月十六日 (1871/5/5)

「晴れ。朝、池良、長、来島が来訪。東京に手紙を出した。三好軍太郎の報せでは、長府人、品川と三好が私に会いに下関まで来る予定だとのことであった。そこで私は夜に大阪楼に行く予約を入れた。三時過ぎに無鄰菴(東行菴)に行ったが、小藤一人を除いて他は皆帰った後であった。この小藤とは、故主人である福田悠々の妾であった人物で、私達は少しの間昔話に興じた。私は一杯の茶を頂き、その後大阪楼に向かった。三好と品川とは、藩政や時勢について語った。黄昏時に宴会を始め、十二時前に宿に戻った。雨。」

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下関の清水山の麓にある、この無鄰菴は元は山縣が建てた草庵だ。東行がこの地に葬られていたこともあり、山縣は明治の初めに東行の愛人であったおうのさん贈ったため、それ以来は東行庵の名で知られている。ここは花木の管理が行き届いており、この時期は躑躅や石楠花が美しかった



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明治四年五月十三日 (1871/6/30)

「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの...