2021/06/30

明治四年五月十三日 (1871/6/30)

「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの現状を遺憾に思い憂いている。今日まだ藩が決断を下せる時でないというのであれば、私は先日の建言も引き下げ、ここ暫く私見を共有するのを控えようと思う。私はこの旨を杉大参事に手紙で伝えたが、彼の言うところによれば、もう少しで決定がなされるはずだとのことだ。なので、この一件はとりあえず杉に任せようと思う。彼は最初から良く尽力してくれている。磯部吉蔵とその倅が来た。二時過ぎに忠正公の御墓参りをした。その後、山田欽一郎の所に行き、彼の母君にお会いした。それから長屋藤兵衛を訪ね、萬代屋、片山の所に行き、再び大久保を訪ねた。野村靖之介から、御堀の病状が悪化したとの報せを受けた。そこで私は烏田敬蔵を派遣するよう杉に手紙を出した。薄暮に高杉の所に寄ってから帰宅。奥平その他の来客あり、奥平は泊って行った。小林武兵衛が、御堀が本日十二時に亡くなったと伝えに来て、いくつか後時について打ち合わせた。なんと哀れなことか!私の最近余りにも多くの友人達を亡くしており、生き残っているのはほんの数名しかいない。今日御堀の訃報に接し、また政府における私の今後の立ち位置について考え、私は悲嘆にくれた。記、河内棋太郎に手伝ってもらい、松の木柱を購入した。」

2021/06/29

明治四年五月十二日 (1871/6/29)

 「晴れ。五時に三輪惣の大久保と西郷を訪ね、東西の事情について話した。大久保は九州出兵の遅延について謝罪し、長州の知事公と私が東京に上るよう促した。二人は三条岩倉両卿、加えて薩摩の知事公(島津久光)の手紙も持参してきた。私はそこから藩廟に出仕し、大参事と他の者達とこの一件について相談し、また会計局改正の件についても話し合った。退出後、直ちに忠正公の御墓参りをしてから帰宅。今日は酷く暑く、九十度近い気温であった。奥平数馬、佐藤寛作、山本清吉が話しに来た。佐藤は先日東京から戻り、濱田へと派遣されていたため、そちらの事情について教えてくれた。九時頃に、野村靖之助、三好軍太郎、南野一郎、小松謙二郎が来た。南野とは先日萩でも会っている。彼は最近山口に来たらしく、明日下関に帰る予定だ。奥平が泊って行った。記、平原平右衛門が来た。」

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日本初の温度計は、かの平賀源内が1765年に作ったのが初めてだとされている。これはおそらくオランダの資料を参考にしたのか、当時まだ主流であった華氏が使われており、それは幕末・明治初期の私の時代でもまだ同じであった。日本が摂氏へと切り替えるのは大分先、大正八年のことだ。



2021/06/28

明治四年五月十一日 (1871/6/28)

 「晴れ。岡義右衛門、竹田庸伯、岡了亭、山本清吉(またの名を宮口)、柴田矢之助と長府の……が来た。清吉と矢之助が、柴田矢之助の息子で、私に同行し東京に行く予定の甚之丞を連れて来た。十時過ぎに出仕、東京まだ同行する者達の嘆願書だけを出してすぐに退出。忠正公のお墓参り。そして萬代屋で大工の棟梁、藤左衛門を呼び、新たな家を建ててもらうよう依頼し、金は利兵衛に渡しておいた。二時頃に片山の所に行き、それから三輪惣へと向かった。大久保はまだ到着しておらず、しばらく待ってから帰宅。今日は、大和、高杉、長峯と廣澤の未亡人達を招いた。森清蔵の奥方も話しに来て、井上世外(馨)も来た。十一時過ぎに解散。記、今朝、大久保が到着したと藩廟からの連絡があり、今夜大久保からの手紙が届いた。」

2021/06/27

明治四年五月十日 (1871/6/27)

 「晴れ。奥平健助と内垣末吉が小郡に向けて発った。宮木貫一郎が来た。彼はもう何年にもわたり測量を学ぶことを欲しており、その為に東京に出たいと願っていた。ここ数日、彼は頻繁に私の支援を求め来ており、私はこの件について山縣弥八に相談していた。我々は明倫館を通じて彼を東京に送ろ手筈を整えようと考えている。十一時に出仕、十二時に退出。忠正公の御墓参りをしてから、萬代屋と片山に寄り、二時過ぎに帰宅。山縣弥八、正木市太郎、井上半三郎、天野順太、奥平数馬、宮木直之進、大津四郎右衛門、片山次右衛門が来た。夜になり解散したが、奥平は泊って行った。幸坂の姪、直次郎と正二郎が萩から戻った。夜半、腹痛で苦しむ。清吉も吐き戻していた。夜に時折り細雨。」

2021/06/26

明治四年五月九日 (1871/6/26)

 「晴れ。河村亀之進が来て、若き有志達の育成について議論した。七時過ぎに出仕、その後忠世公の御墓参りに向かった。それから御裏に向かい、御堀から頼まれた二つの双眼鏡を内藤忞翁を通じて両御夫人に御渡しした。三時に退出、山縣と共に片山の所に向かい小休憩。青木郡平宅前を通り、井上の元へと向かった。高杉、大和、長峯の未亡人が集まっていた。福原内蔵之丞、児玉七十郎も来た。今日藩廟では、木梨撫育大属と糸賀大属と共に、会計局と撫育(貯蓄投資)を統合する件について議論し、我々は藩の方針が人々の仕事を妨げるようなことがあってはならないという点で合意した。井上は最近特に藩の会計を軌道に乗せるため尽力しており、今日私がこうして藩廟に出仕したのも、彼の頼みによるものであった。そこで私は彼に、今日の藩廟での次第について伝えておいた。九時前に帰宅。奥平健介と内垣末吉が泊りに来た(末吉はここ数日ずっとだ)。下関の池田良助が来泊。御堀耕助は北川清介の次男を養子にしたいと欲し、この願いを私に託した。私は昨日、勝三郎に北川宛の手紙を持たせたのだが、今日北川が山口まで来て、許諾すると伝えてくれた。次男の名は金八で、年は十一歳だ。」

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撫育局というのは、長州藩の知られざる財源で、維新の凡そ百年前、重就公の指示の元設置された機関だ。今で言うところの藩の『特別会計』の役割を担っており、余剰資金を蓄積するのは無論、櫨蝋の生産、塩田や田畑の開発、金融業や倉庫業と言った事業に投資し、莫大な利益を産むことに成功した。

この資金無しには、幕末に西洋から大量に武器を仕入れるなど、到底無理だったに違いない。撫育には俊輔も聞多も私も深く関わっており、明治政府や皇室御料局設置の際などにも、その知見は活かされることになる。

2021/06/25

明治四年五月八日 (1871/6/25)

「晴れ後曇り。田中稔助が、宍戸三郎や山縣狂介(有朋)からの手紙を携え、東京から戻って来た。私は近日中に、大久保参議と西郷兵部権大丞(従道)が山口を訪れると知らされた。この訪問の目的は、東西間の齟齬について、田中から報告を受けたことによるものだという。私はこれまで何度か東京に戻るようにと政府に催促されていたのだが、政府が何らかの決断を下すまで、ここから東京の様子を伺うに留めていたわけであり、今回のこの意外な展開には不満を覚えている。福原内蔵之允と児玉吉十郎が来た。宮城貫一郎も来た。一時頃に忠世公のお墓参りをしてから、安玄佐を訪ねた。中村屋、片山、三輪惣をそれぞれ訪ねてから帰宅。記、御堀の体調がここ二三日の間に劇的に悪化したと、鈴木……が報せに来た。御堀に、竹田祐伯を寄越して欲しいと頼まれ、私はこれを柏村と杉に伝え、竹田にも手紙を出しておいた。」

2021/06/24

明治四年五月七日 (1871/6/24)

「晴れ。吉松平四郎と青木郡平が来た。十一時頃に家を出て、井上世外に会いに湯田へ向かったが不在。瓦屋で昼食を取った。野村靖之助と河野亀之進と話してから忠正公の御墓参りに向かい、帰り道片山の所に立ち寄った。大中作右衛門、吉田宇一郎、奥平健助、末吉、久保断三、井上世外、山縣弥八を含む十数人が集まっていた。八時頃に、杉と久保を連れて糸米村の自宅へ帰った。今朝、私が先日藩に出した建言、つまり藩の為に殉難したか、貢献したが病に倒れた者達の遺族、及び女手一つで育てられている者達に対して藩が教育援助をするという案 ―― これらは全て今現在きちんとした理解がされていない問題だ ―― について、杉から手紙が届いた。この建言は議論を引きおこしたらしいが、杉によると、藩政府は此度この案を採用すると決めたとのことであった。山田宇右衛門と大和国之助の倅達の件が吟味されると聞き、私は大いに安堵した。山田は私の東京行きに同行する予定だ。松を始めとした数名が萩から戻った。記、宮木貫一郎が来た。」

明治四年五月十三日 (1871/6/30)

「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの...