2021/01/31

明治三年十二月十一日 (1871/1/31)

 「朝のうちに小雨、急に止む。九時過ぎに大久保を訪ね、共に岩倉卿に相談に向かう。その後、造幣局に向かい、そこで想像以上に優れた装置に驚かされた。従来の造幣局の仕事は疎かであり、偽造も稀ではなかった。井上と馬渡の手配で、各種の器械がどう動くのかイギリス人キンダーから説明を受け、これは黄昏時までかかった。帰り道に、大久保の所に寄って、酒を飲みつつ碁を打った。三人の碁の名手が同席していた。記、河村兵部大丞と松方民部大丞が東京から到着した。太政官から、日田県での騒動を鎮圧するようにとの委任状が届いた。」

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大久保を相手に碁を打つと、負ければ当然悔しいのだが、勝ったら勝ったで、普段なかなかお目にかかることの出来ない鬼の形相を目の当たりにすることになる。さて、どちらが良いのか……


このキンダー氏は元は香港鋳貨局の長官だったのだが、パークスとグラバーの紹介で大阪造幣局に招致された。この仕事の重要性もあり、彼は三条公を越える高給取りであったのだが、流石その給料に見合っただけの仕事をしてくれた。だが遠藤とは性格的にあまり折が合わなかったようで、彼はこれから五年と経たぬうちに他の外国人達と共に雇用を解消され、造幣局は日本人のみによって運用されるようになる。明治初期の御雇い外国人の命運とは、大体そういったものであった



2021/01/30

明治三年十二月十日 (1871/1/30)

 「晴れ。山縣と鳥尾が来た。十二時過ぎに、井上世外(馨)を訪ね川を渡った。彌吉(勝)も同行した。六時過ぎに大久保を訪ねたが、不在。そこから長州藩邸に移動し、一晩を過ごした。」

2021/01/29

明治三年十二月九日 (1871/1/29)

 「晴れ。七時に舟で淀川を下り始め、四時頃に網島に到着。井上彌吉(勝)を訪ねたが不在であった。代わりにご老人に会い、彼と暫し会話した。昔と変わらず壮健であられた。山田を訪ねる。夜には佐々木、松本、河野と井上が訪れ、結局全員が泊って行った。」

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彌吉(勝)は所謂『長州ファイブ』の一人で、俊輔、聞多、山尾、遠藤の密航仲間だ。一年前の私の呼びかけに応え、以来、新政府の鉄道事業に携わっていた。当時の日本は技術力に欠け、イギリス人技師のモレルに頼りきりであったが、彌吉は良く学び、モレルが事業半ば斃れた後も鉄道開業に尽くした



2021/01/28

明治三年十二月八日 (1871/1/28)

 「昨夜から雨と雪。東山の景色の美しさは比肩するものがない。来客絶えず。槇村に東京宛の手紙と、プロイセンの青木周蔵宛の手紙を預けた。莱山から半紅の手による絹の掛け軸を購入。四時過ぎに京都を発ち、町中に伏見の鼈甲屋に到着した頃には、町中に灯がともされていた。山縣と高屋はすでに鼈甲楼に到着していた。」

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私は色々な長州人の兄貴分を務めてきたが、中でも周蔵には良く懐かれていたと思う。彼は早くから西洋に留学しており、少し先の話になるが、後にドイツ滞在中に現地の令嬢エリザベートと結婚した。貞介とは違い、こちらはちゃんと長続きし、ハナちゃんと言う非常に愛らしい娘さんにも恵まれた



2021/01/27

明治三年十二月七日 (1871/1/27)

 「晴れ。雑多な来客。日田県への出兵について話しに、山縣素狂(有朋)と高屋……が浪華から来た。この問題についてどう対処するかは、先日岩倉卿の所で戦略を定めていたので、今日は指示の詳細を詰める為に岩倉卿亭へと向かった。最近、浮浪の徒が浪華に到着し、僧侶や不平の輩達を集めて日田県の人民を扇動し、一揆を引き起こして県庁を襲い、また周防の大島郡にも攻め入り金や穀物を強奪したとの噂を伺った。この連中は昨春長州で反乱を起こした大楽隊や他の隊とも繋がっているとの話だ。如何にこれらの連中を取締るか、岩倉卿と議論した。夕方、前田松閣が来た。彼とは二回ほど会っており、前回京都に来た時には私に治療を施してくれたのであった。槇村と藤村に頼まれた揮毫を仕上げた。今夜は中村楼に井上夫人を招待しており、私は五時頃に祇園へお参りしてから、彼女に会いに茶屋へと向かった。三味線と舞は酒をさらに旨くした。山縣と高屋も加わり、私は十時過ぎに高屋の泊まっている松力に向かった。旧友の君遊が居て一時の談笑を交わした。十二時に宿に戻り就寝。記、大久保は今朝出立。」

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山縣は面倒事に巻き込まれがちな質で、当時も引っ切り無しに戦に駆り出されていた。彼の後世の評価は汚職・反政党・反社会運動といった否定的なものが多いが、あれはあれで人の面倒見が良く、律儀で、新しいものに飛びつかない慎重で、良い奴であった。俊輔とは正反対の気質だが仲は良かった



2021/01/26

明治三年十二月六日 (1871/1/26)

「晴れ。槇村と藤村の両参事が、在京政府の事情と時勢について話しに来て、私は彼らに正直な意見を伝えた。彼等は十二時前に去った。大久保も私を訪ねて来た。三時過ぎに、莱山、平原と私は八新楼の天狗会に向かい、鳩居老も一緒に来た。帰り道に清雅と莱山に寄り、十時頃木屋町に戻り、井上夫人に会う。十二時頃に就寝。記、兵部省の用件で、藤村が来た。」

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槇村は幼馴染で、私は彼に実質的な京都の運用を任せていた。彼は有能で、陛下の遷都以来萎んでいた古都を盛り上げることに成功していた。教育の重要性も理解しており、日本初の小学校を設立したのも彼の成果だ。私は後に新島襄のことも彼に推薦したが、教育熱心な二人は中々馬が合ったようだ



2021/01/25

明治三年十二月五日 (1871/1/25)

 「晴れ。雑多な来客。二時頃に大久保を訪ね、共に岩倉卿の所へと向かい、在京政府の役割等について議論した。夜十時頃に宿に戻った。」

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二人は幕末、まだ岩倉卿が蟄居される前、公武合体を目指し色々と画策していた時代からの付き合いだ。双方とも名より実を取る主義で、目的の為には手段を選ばない所も似ていた。少し妬ましい程に強い信頼で結ばれており、同志と言うよりはむしろ兄弟に近かったかもしれない



明治四年五月十三日 (1871/6/30)

「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの...