「晴れ。十二時過ぎに参朝。正午前後に強烈な雨。二時に退出、廣澤と馬車で彼の家に向かった。四時過ぎに山尾と、つい最近新居に引っ越したばかりの三浦梧楼を訪ねた。夜になり、雨足が強くなった。今日は一家総出で猿若劇場に向かった。」
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三浦は短気でヤンチャな若者で、私もよく弟分として可愛がってやったものだ。彼は何よりも薩長の藩閥政治を嫌っており(それで山縣とはいつも反目していたが)、情実の打破は私が信ずるところであったこともあり、よく膝を交えて話したものだ
「晴れ。十二時過ぎに参朝。正午前後に強烈な雨。二時に退出、廣澤と馬車で彼の家に向かった。四時過ぎに山尾と、つい最近新居に引っ越したばかりの三浦梧楼を訪ねた。夜になり、雨足が強くなった。今日は一家総出で猿若劇場に向かった。」
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三浦は短気でヤンチャな若者で、私もよく弟分として可愛がってやったものだ。彼は何よりも薩長の藩閥政治を嫌っており(それで山縣とはいつも反目していたが)、情実の打破は私が信ずるところであったこともあり、よく膝を交えて話したものだ
「晴れ。佐久間正之助と檜了助が来た。四時、佐久間と私は典医の伊東を訪ねに馬車で築地に向かったが、不在で、五時頃に帰宅。山縣素狂(有朋)が来た。伊東は私の不在中に来たのだと聞いた。記、品川弥二郎がニューヨークからヨーロッパの近況について手紙をくれた。」
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弥二郎は当時、普仏戦争見分のためにヨーロッパに派遣されていた。彼は勤王芸妓で名高い君尾の心を見事射止めた幸せ者で、戊辰戦争の折には、彼女と一緒に官軍歌を作曲作詞したりと仲睦まじくやっていたらしい(君尾と聞多が昔恋仲であったことは、彼の前では話してはならない)
「晴れ。十時前に参朝。三条公に、幾つかの政府案件について意見を求められた。廣澤を西方に向かわせるという決断が下された。薩摩の状況については公私双方の観点から日頃苦心していたこともあり、このような良い報せを聞くと、国家のためにも喜ばしい。四時頃に退出、帰り道に大木を訪ね、酒を飲み交わしながら話をした。その後、廣澤宅に寄ってから、七時頃に帰宅。山尾常二郎の洋行について、黒田了介(清隆)と話した。」
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三条公は親長州派の公家の筆頭格で、文久の時分からの長いお付き合いだ。彼はいつも政治的に難しい状況で板挟みになられていて、気苦労が絶えなかったであろうことは想像に難くない。彼は優れた決断力をお持ちだったわけでも、特に聡明であられたわけでもなかったが、誰よりも方正謹直であられ、個性豊かな新政府のまとめ役を務めることは、彼と岩倉公を除いて他の誰にも成しえなかったのではないかと思う
「晴れ。九時に正親町三条卿と大久保は東京に、私はエリオットの所に向かった。十時過ぎに馬車で東京に向けて発ち、一時過ぎに築地に到着、伊藤宅で昼食。大隈を訪ねた帰りに神田邸に寄り、廣澤を訪ね、七時になってようやく帰宅。井上彌吉(勝)が泊りに来た。」
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エリオット氏はニューヨーク州生まれのアメリカ人歯科医で、この時齢僅か三十歳であったが、後に日本人初の歯科医となる小幡英之助の師匠になった人物だ。彼は人気の医者であったが、日本人で彼の治療を受けることが出来たのは、新島襄、小西郷そして私ぐらいのものだ
「深夜十二時に錨を上げて阿波の……に向けて出発した。荒波のせいでそこでの灯台を見分することは叶わなかったので、十一時に相模の剣崎灯台に向かった。そこで三時過ぎまで諸器械を降ろしてから、六時頃に横浜へと帰還した。正親町三条卿、大久保と私は通商司會舎に向かい一泊した。私はそこから正二郎のところに向かい、私と一緒に過ごせるよう連れて来た。」
「暁雨、風もようやく落ち着いてきた。六時に錨を上げ、昨晩初めて灯がともされた三ヶ本へと向かった。灯台にも登り、見分した――これは皇国第一の品で、途轍もなく優れた代物だ。八時過ぎに下田に戻り、十時過ぎに錨を上げて蓮台寺にある……宿へ向かい、温泉に閑静な時を過ごした。ここにはこれまで二度ほど来たことがあり、一度目は十七年前、二度目は十六年前であった。十七年前はプチャーチン提督に指揮されたロシアの軍艦が沖に来ていたときのことで、彼の船は津波に沈められたのであった。下田の家々も全て、この波に沈められ、千人近くが命を失った。宮田の守備隊に配属された私と中村百合蔵は、蓮台寺にしばし滞在していた。この旅で、私は箱根山脈の中で大地震を経験したのだ。十六年前は浦賀で商船に乗ってここまで来ており、再び蓮台寺に一泊してから、戸田へと向かったのであった。プチャーチンは前年にスクーナー艦(帆船)を造調しており、私は長州もこの例に倣うよう建言し、二人の船大工を雇い長州のためにスクーナー艦を作るように命じていた。諸藩の中でも一足先に造船や海軍を追求することを唱えたの我が藩であった。当時、このような軍艦を作り得た藩は皇国内に一藩二藩しか無かった。あの旅で下田に来ていた私のために、中島三郎助は色々と周旋してくれたのであった。三郎助と彼の二人の息子達は昨年、函館での戦で命を落とした。私は常に彼の先見の明を尊敬していた。だから昨年、主君の狂気のせいで彼が道を誤ろうとしていると感じたときには、なんとか彼を探し出し、時勢について忠告しようとしたものだ。だが時既に遅く、彼はすでに函館に発った後であった。これは私の一生の遺憾だ。この十六年、十七年、言葉では表せないほどに何もかも変わってしまった。私が今日まで生き延び、この地に再び戻ってくるなど、まったく予想できなかった。どうすれば君父様(毛利元親)の大恩にお返しが出来るのか、私にはわからない。イギリス人のサトウが四時前に来た。正親町三条卿や大久保等と共に下田まで川を下り、半田屋で飲食を楽しんだ。十時過ぎに船に戻った。」
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中島三郎助はペリー来訪時に身分を偽ってでも黒船に乗り込み、交渉をする傍ら船の機構を調査し、更にはその学びを生かして造船や航海に携わるなど、素晴らしく柔軟で行動力にあふれた人物であった。もし彼が生きて新政府に来てくれていたら、一体どれほど貢献してくれたことか……
「暁雨、終日曇り。横須賀を七時前に発ち、四時に下田に到着。今日も再び強烈な西風が吹いていた。三ヶ本に到着すると、海上から灯台を見たが、上陸は出来なかった。下田で下船し、半田屋で少し寛いでから十時過ぎに船に戻った。」
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この灯台がある神子元島は、伊豆下田港から10kmほど南下したところにある岩礁で、昔からよく船が暗礁に乗り上げることで知られていた。幕府が列強と改税約書を調印した際に、このような灯台を日本各所に設置すると約束したのだ(実際に建てたのは我々だが……)ちなみこの灯台は150年経った今でも現役だ。
「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの...