「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの現状を遺憾に思い憂いている。今日まだ藩が決断を下せる時でないというのであれば、私は先日の建言も引き下げ、ここ暫く私見を共有するのを控えようと思う。私はこの旨を杉大参事に手紙で伝えたが、彼の言うところによれば、もう少しで決定がなされるはずだとのことだ。なので、この一件はとりあえず杉に任せようと思う。彼は最初から良く尽力してくれている。磯部吉蔵とその倅が来た。二時過ぎに忠正公の御墓参りをした。その後、山田欽一郎の所に行き、彼の母君にお会いした。それから長屋藤兵衛を訪ね、萬代屋、片山の所に行き、再び大久保を訪ねた。野村靖之介から、御堀の病状が悪化したとの報せを受けた。そこで私は烏田敬蔵を派遣するよう杉に手紙を出した。薄暮に高杉の所に寄ってから帰宅。奥平その他の来客あり、奥平は泊って行った。小林武兵衛が、御堀が本日十二時に亡くなったと伝えに来て、いくつか後時について打ち合わせた。なんと哀れなことか!私の最近余りにも多くの友人達を亡くしており、生き残っているのはほんの数名しかいない。今日御堀の訃報に接し、また政府における私の今後の立ち位置について考え、私は悲嘆にくれた。記、河内棋太郎に手伝ってもらい、松の木柱を購入した。」
2021/06/30
2021/06/29
明治四年五月十二日 (1871/6/29)
「晴れ。五時に三輪惣の大久保と西郷を訪ね、東西の事情について話した。大久保は九州出兵の遅延について謝罪し、長州の知事公と私が東京に上るよう促した。二人は三条岩倉両卿、加えて薩摩の知事公(島津久光)の手紙も持参してきた。私はそこから藩廟に出仕し、大参事と他の者達とこの一件について相談し、また会計局改正の件についても話し合った。退出後、直ちに忠正公の御墓参りをしてから帰宅。今日は酷く暑く、九十度近い気温であった。奥平数馬、佐藤寛作、山本清吉が話しに来た。佐藤は先日東京から戻り、濱田へと派遣されていたため、そちらの事情について教えてくれた。九時頃に、野村靖之助、三好軍太郎、南野一郎、小松謙二郎が来た。南野とは先日萩でも会っている。彼は最近山口に来たらしく、明日下関に帰る予定だ。奥平が泊って行った。記、平原平右衛門が来た。」
==========
日本初の温度計は、かの平賀源内が1765年に作ったのが初めてだとされている。これはおそらくオランダの資料を参考にしたのか、当時まだ主流であった華氏が使われており、それは幕末・明治初期の私の時代でもまだ同じであった。日本が摂氏へと切り替えるのは大分先、大正八年のことだ。
2021/06/28
明治四年五月十一日 (1871/6/28)
「晴れ。岡義右衛門、竹田庸伯、岡了亭、山本清吉(またの名を宮口)、柴田矢之助と長府の……が来た。清吉と矢之助が、柴田矢之助の息子で、私に同行し東京に行く予定の甚之丞を連れて来た。十時過ぎに出仕、東京まだ同行する者達の嘆願書だけを出してすぐに退出。忠正公のお墓参り。そして萬代屋で大工の棟梁、藤左衛門を呼び、新たな家を建ててもらうよう依頼し、金は利兵衛に渡しておいた。二時頃に片山の所に行き、それから三輪惣へと向かった。大久保はまだ到着しておらず、しばらく待ってから帰宅。今日は、大和、高杉、長峯と廣澤の未亡人達を招いた。森清蔵の奥方も話しに来て、井上世外(馨)も来た。十一時過ぎに解散。記、今朝、大久保が到着したと藩廟からの連絡があり、今夜大久保からの手紙が届いた。」
2021/06/27
明治四年五月十日 (1871/6/27)
「晴れ。奥平健助と内垣末吉が小郡に向けて発った。宮木貫一郎が来た。彼はもう何年にもわたり測量を学ぶことを欲しており、その為に東京に出たいと願っていた。ここ数日、彼は頻繁に私の支援を求め来ており、私はこの件について山縣弥八に相談していた。我々は明倫館を通じて彼を東京に送ろ手筈を整えようと考えている。十一時に出仕、十二時に退出。忠正公の御墓参りをしてから、萬代屋と片山に寄り、二時過ぎに帰宅。山縣弥八、正木市太郎、井上半三郎、天野順太、奥平数馬、宮木直之進、大津四郎右衛門、片山次右衛門が来た。夜になり解散したが、奥平は泊って行った。幸坂の姪、直次郎と正二郎が萩から戻った。夜半、腹痛で苦しむ。清吉も吐き戻していた。夜に時折り細雨。」
2021/06/26
明治四年五月九日 (1871/6/26)
「晴れ。河村亀之進が来て、若き有志達の育成について議論した。七時過ぎに出仕、その後忠世公の御墓参りに向かった。それから御裏に向かい、御堀から頼まれた二つの双眼鏡を内藤忞翁を通じて両御夫人に御渡しした。三時に退出、山縣と共に片山の所に向かい小休憩。青木郡平宅前を通り、井上の元へと向かった。高杉、大和、長峯の未亡人が集まっていた。福原内蔵之丞、児玉七十郎も来た。今日藩廟では、木梨撫育大属と糸賀大属と共に、会計局と撫育(貯蓄投資)を統合する件について議論し、我々は藩の方針が人々の仕事を妨げるようなことがあってはならないという点で合意した。井上は最近特に藩の会計を軌道に乗せるため尽力しており、今日私がこうして藩廟に出仕したのも、彼の頼みによるものであった。そこで私は彼に、今日の藩廟での次第について伝えておいた。九時前に帰宅。奥平健介と内垣末吉が泊りに来た(末吉はここ数日ずっとだ)。下関の池田良助が来泊。御堀耕助は北川清介の次男を養子にしたいと欲し、この願いを私に託した。私は昨日、勝三郎に北川宛の手紙を持たせたのだが、今日北川が山口まで来て、許諾すると伝えてくれた。次男の名は金八で、年は十一歳だ。」
==========
撫育局というのは、長州藩の知られざる財源で、維新の凡そ百年前、重就公の指示の元設置された機関だ。今で言うところの藩の『特別会計』の役割を担っており、余剰資金を蓄積するのは無論、櫨蝋の生産、塩田や田畑の開発、金融業や倉庫業と言った事業に投資し、莫大な利益を産むことに成功した。
この資金無しには、幕末に西洋から大量に武器を仕入れるなど、到底無理だったに違いない。撫育には俊輔も聞多も私も深く関わっており、明治政府や皇室御料局設置の際などにも、その知見は活かされることになる。
2021/06/25
明治四年五月八日 (1871/6/25)
「晴れ後曇り。田中稔助が、宍戸三郎や山縣狂介(有朋)からの手紙を携え、東京から戻って来た。私は近日中に、大久保参議と西郷兵部権大丞(従道)が山口を訪れると知らされた。この訪問の目的は、東西間の齟齬について、田中から報告を受けたことによるものだという。私はこれまで何度か東京に戻るようにと政府に催促されていたのだが、政府が何らかの決断を下すまで、ここから東京の様子を伺うに留めていたわけであり、今回のこの意外な展開には不満を覚えている。福原内蔵之允と児玉吉十郎が来た。宮城貫一郎も来た。一時頃に忠世公のお墓参りをしてから、安玄佐を訪ねた。中村屋、片山、三輪惣をそれぞれ訪ねてから帰宅。記、御堀の体調がここ二三日の間に劇的に悪化したと、鈴木……が報せに来た。御堀に、竹田祐伯を寄越して欲しいと頼まれ、私はこれを柏村と杉に伝え、竹田にも手紙を出しておいた。」
2021/06/24
明治四年五月七日 (1871/6/24)
「晴れ。吉松平四郎と青木郡平が来た。十一時頃に家を出て、井上世外に会いに湯田へ向かったが不在。瓦屋で昼食を取った。野村靖之助と河野亀之進と話してから忠正公の御墓参りに向かい、帰り道片山の所に立ち寄った。大中作右衛門、吉田宇一郎、奥平健助、末吉、久保断三、井上世外、山縣弥八を含む十数人が集まっていた。八時頃に、杉と久保を連れて糸米村の自宅へ帰った。今朝、私が先日藩に出した建言、つまり藩の為に殉難したか、貢献したが病に倒れた者達の遺族、及び女手一つで育てられている者達に対して藩が教育援助をするという案 ―― これらは全て今現在きちんとした理解がされていない問題だ ―― について、杉から手紙が届いた。この建言は議論を引きおこしたらしいが、杉によると、藩政府は此度この案を採用すると決めたとのことであった。山田宇右衛門と大和国之助の倅達の件が吟味されると聞き、私は大いに安堵した。山田は私の東京行きに同行する予定だ。松を始めとした数名が萩から戻った。記、宮木貫一郎が来た。」
2021/06/23
明治四年五月六日 (1871/6/23)
「晴れ。山田熊太郎が来た。彼の父、宇右衛門はこの国の為に大いに尽くしてくれた。それもあり、私は熊太郎が学業の為に東京に出るのを手助けしたいと考えている。高杉梅太郎も毎日私を訪ねて来る。福原清助、石部禄郎、伊藤傳之助が来訪。十一時に忠世公の墓参りをしてから、村尾次兵衛の所に行き、山口城下で一番と称される彼の野菜畑を見学。藤田興次右衛門の所で昼食。馬来勝平と村尾が話しに来た。帰り際に、林良輔の宿を訪ね小幡に会い、数刻に渡り話した。その後、久保断三を訪ね、八時前に帰宅。奥平健助が私を待っていた。」
2021/06/22
2021/06/21
明治四年五月四日 (1871/6/21)
「晴れ。蒸し暑い。大津四郎右衛門、天野順太、石部禄郎、小幡彦七、曾根玄三、児玉少輔、菊屋孫太郎その他、一時には二十人余りの来客。佐畑健助が来た。明日東京に向けて発つという話であったので、吉富宛の手紙を託した。高杉小忠太が訪ねて来た。昨日、私は高杉家で、東行の息子、梅太郎を引き取り東京に連れて行くことを提案した。一家は同意し、小忠太がこの件について打ち合わせるため、梅太郎も連れてやって来たのだ。この子も当年八歳だ。東行は数年前、不幸にもその命を落とした私の良き友で、私はきっと生涯彼を忘れられないであろう。旧友の岡義右衛門が今日萩に帰った。矢嶋が私に託した品々の中から、蕪村作の掛け軸と、中小の陶器を幾つか、高品質と低品質のもの両方合わせて購入した。十一時に出仕。十二時過ぎに、大属以上の者達による合議が開かれ、二十年以内に藩の四百万金の借金を返済するという会計目標で皆合意した。もしこの約束を違えることになれば、我々は実に百万の人民の信頼を失うだけでなく、藩政府自体が立ち行かなくなることは言うまでもあるまい。このような約束を立てるのは如何なものかと私は思ったが、敢えて口を慎んだ。四時過ぎに退出し、忠正公の墓参りをしてから山田と小幡を訪ねた。これは公私半々の訪問であった。萬代屋で井上世外(馨)と落ち合い、一緒に山城屋と片山の所に寄り、七時頃に帰宅。」
==========
梅太郎、後の高杉東一とは一緒に東京に戻り、そこで私と正二郎と共に写真を撮った(左の小さいのが梅太郎で、右が正二郎だ)。彼は後に俊輔と共に洋行し、辞書の編纂に関わったほか、外交官として海外に駐在した。きっと海外に興味津々であった東行も、あの世で誇りに思っていることだろう
2021/06/20
明治四年五月三日 (1871/6/20)
「曇り後雨。杉が話しに来たので、藩の抱えている問題数件について議論した。これには子供の居ない御老人達、武士達のための土地、地下役人達の件等々が含まれていた。十一時頃、忠正公の墓参りに向かった。帰り際に高杉家に寄ってから帰宅。井上世外を訪ね、政府の資金繰りについて議論した。記、岡義右衛門と岡竹之進が泊りに来た。」
2021/06/19
明治四年五月二日 (1871/6/19)
「晴れ。井上世外が話しに来た。大津と小澤も来た。その後客館に行き、勅使堀川殿に謁見、三条岩倉両公からの伝言を直にお伝え頂いた。私は当藩の内情についてご報告差し上げた。退出後、杉を訪ねたが不在であった。忠正公(毛利敬親)の御墓参りをしてから藩廟に出仕、陸軍局の一件についての会議に参加した。三時過ぎに退出。福原内蔵之丞が訪ねて来た。夜、片山の所に向かい、その後坪井惣右衛門の所で山縣、井上、正木と会った。今夜は中村屋に宿泊。片山が話しに来た。」
2021/06/18
明治四年五月一日 (1871/6/18)
「今日、道中で杉権大事からの緊急の手紙を受け取った。三条公岩倉両公の命により、長松少辨が日田へと派遣されるという。晴れ。来客で賑わっていた。十一時頃に出立。岡義右エ門の案内で、七八人の付き添いと共に矢島半平宅へ向かう。二時頃にそこを発ち、八時前に山口に到着。久保と柏村を訪ね、片山の所で山縣、正木、坪井、井上に会った。中村屋に宿泊。今日、井上世外(馨)から三条公の手紙を受け取った。勅使の堀川卿がお持ちになられたらしい。記、吉富簡一と平岡平吉からの手紙も届いた。」
2021/06/17
明治四年四月三十日 (1871/6/17)
「晴れ。龍昌院、妙香院、海潮寺、本行寺と回り、墓参り。そこから徳隣寺へと向かい、寺内、組式、小幡、児玉、中村、山田他を訪ね、三時頃に帰宿。山のような来客。記、三浦梧楼を訪ねてみたが、置手紙を残し既に山口に向けて発った後であった。」
2021/06/16
明治四年四月二十九日 (1871/6/16)
「晴れ。山根、藤本、笠井が来た。寺内弥二郎翁も来られた。十時前に発ち、豊原の磯部吉蔵の所で昼食を取った。宮口清十郎が見送りに来て、井上半三郎と飯田剛蔵も会いに来た。三隅と宗頭の間で突然の雨に見舞われ、全身ずぶぬれになってしまった。五時過ぎに玉江に入り、前田の所で小休憩。天樹院山へと墓参りに向かい、山縣吉之助を訪ね、和田家で先祖代々の位牌を拝み、鹿島に宿泊した。奥平数馬父子、草刈八十八が来た。久保弾三からの公書、岩倉公からの手紙二通、三条岩倉両公の署名の入った手紙一通、そして大久保参議、野村素介、長松小辨からの手紙も届いた。記、今日二十九日、沢口で飛脚に会い、杉権大参事からの手紙を受け取った。中には、勅使一行への指令の写しが同封されていた。一つ、従二位の御老公逝去につき、堀川侍従を勅使として差し向ける。一つ、同上につき、知事公へと御菓子を贈る。一つ、同上につき、今回この任を命じられた堀川を通じて贈位する。一つ、同上につき、堀川は代理として神々への捧げものを行う。一つ、亡き従二位公の三十日忌の後、山口藩知事公は東京へと戻ること。詳細については追って通達する。一つ、亡き公臨終の際の建言について。一つ、木戸の早期東京帰還について。一つ、勅使一行は客館末家へと受け入れられること。一つ、藩の役人達はこの指令や贈り物を受け取った後、各種手配を行い、知事公へとこの指令をお渡しすること。」
2021/06/14
明治四年四月二十七日 (1871/6/14)
「晴れ。十二時過ぎに藤本、山根、磯部と布鼓軒を散歩した。園内の屋宅は半壊していたが、ここは閑静で良い地だ。夜、笠井順八と碁を打った。三浦梧楼からの手紙が届いた。」
==========
布鼓軒がある大寧寺はかつて「西の高野」と言われるほど栄華を誇った寺で、室町時代から戦国時代にかけての西国の雄である雄である大内氏終焉の地でもある。境内には防長三奇橋の一つである盤石橋(写真)もあり、この寺の閑静な空気は散歩に非常に適していた。
残念ながら廃仏毀釈のあおりを受け、寺は管理者を失い、私が訪ねていたこの時以来、この寺は荒廃の一歩を辿った。昭和に入ると幸いにも保護保存が叫ばれ始め、おかげで人々は今でもこの庭園を訪ね、素晴らしい紅葉や桜を愛でることが出来る
2021/06/13
明治四年四月二十六日 (1871/6/13)
「曇り。山根秀輔の返事が届いた。杉孫七郎、三好軍太郎、曽根某からの手紙が届いた。磯部吉蔵が来訪。和田久七と山本七右衛門も訪ねて来た。夕方に、宮口、山根、藤本と共に河野庄七の茶会に参加した。秋元……の手配であった。夜、友人達が数名話しに来た。記、渋木の訂心寺の欽玄が訪ねて来た。彼は現在大寧寺に滞在している。夜、山本からの使いが来たが、七右衛門とは行き違いになってしまった。七右衛門の御老母が、彼の不在中にお亡くなりになってしまったのことであった。なんとも哀れな話だ。」
2021/06/12
明治四年四月二十五日 (1871/6/12)
「曇り。昨日藤本鉄之進が到着し、今朝私を訪ねて来た。井上半三郎が去り、和田久七が再び来た。笠井順八が訪ねて来た。山口からの飛脚に、杉、山縣と井上世外(馨)宛の手紙を持たせて今朝帰した。藤本鉄之進、山根健助、内藤元泰、宮口清吉が飲みに来た。」
2021/06/11
明治四年四月二十四日 (1871/6/11)
「正明の和田久七が来た。久七は宗トウの山本の親戚で、山本は病のせいで当主自身が来ることは叶わず、代わりに和田を寄越したとの話であった。河原、今田惣左衛門、西市の中野源蔵が来た。六時前に、井上と私は大寧寺に向かい、義隆公の墓前で手を合わせた。八時前に宿に戻る。今日、江木から一瓶のウニの贈り物が届いた。夜、杉権大参事からの手紙が届き、そこには藩からの建言書と、捕縛された浮浪、暴激の輩達の自白書が同封されていた。二十日の夜、岩倉卿の手紙を携え、芳野親義内舎人権助が山口に到着した。私は不在であったので杉が代わりに応対し、この手紙の内容を承った。佐田屋作兵衛なる、かつて京都の我が家に出入りしていた男が困窮し、金を無心に来た。私は彼が来るとは知らなかったので、部下の一人が幾許かの金子を持たせて返してしまった。」
==========
前大津と先大津は、今で言うところの長門市で、日本海に面した北浦の一部だ。ここで取れるウニは絶品で、よく一般的に最高級とされている北海道産に勝るとも劣らない品質だ。この時期は特に赤ウニが食べ頃で、その濃厚な味わいは日本酒に非常に良く合う。
ちなみにウニは遥か昔奈良時代から食べられてきたが、アルコール漬けの加工法が発明されたのは明治初期のことで、それも下関が発祥の地だ。今でも市場に出回っている瓶入りウニの凡そ半数は山口県さんの物だという
2021/06/10
明治四年四月二十三日 (1871/6/10)
「晴れ。宮口清吉が来た。今朝、横山が正明の部署へと帰った。江木と宮口と共に、黄波戸を経由して日置に向かい、井上半三郎を訪ねた。何杯か飲みつつ語り合った。彼の住まいは閑静な地にある。今日は正二郎も連れて行った。半三郎は私達を見送りに途中まで同行した。江木は先大津の部署に帰った。黄波戸の中村市右衛門の所で小休憩。市右衛門は先大津一の富豪だというが、彼はこの国南方の平民達よりも質素な生活を送っている。市右衛門の世話になり、黄波戸から正明まで移動する漁船を手配してもらった。船頭の二人は、お年を召された兄弟であった。年配の長兵衛は七十八歳、若い方の……は七十三歳で、二人とも極めて壮健であった。彼等は昨年、三人の子供達を難船で失ってしまったと言う。私は哀れに思い、去り際に幾許かの金子を渡した。深川に戻って来たのは十時近くであった。記、今日から梅雨の季節が始まる。斎藤健蔵が幾つかのちまきを携えやって来た。健蔵と言えば、十三年前に私が秘境の谷を訪ねた時に斎藤宅に泊まった時に初めて会ったのであった。当時私は北浦の視察をしており、深川まで来たところで、師吉田松陰が江戸で捕縛されたとの報せを聞き驚愕したものだ。私は萩へと戻り、その年の秋、江戸に行き松陰先生の亡骸を埋葬した。この時のことは、未だに話すのも辛い。」
==========
松陰先生ほど、多くの尊敬を集める一方、間違った理解をされている人物も居ないであろう。私達は年も近く、先生生徒というよりは兄弟のような間柄ではあったが、彼は真に師と呼ぶに値する男で、温厚さの奥に、大義の前に同志の命も、自らの命でも投げ打てる過激さを持っていた
2021/06/09
2021/06/08
明治四年四月二十一日 (1871/6/8)
「雨。今朝、大吉が帰ったので、彼に八谷藤太宛の手紙を託した。ついでに野村素介宛の手紙と、遠田甚助宛の手紙も一通ずつ預けた。三田尻の山根健蔵が訪ねて来た。夕方、陶器を買いに三ノ瀬まで散歩し、六時前に宿に戻った。中野十一が見舞いに来て、兄源蔵からの手紙を届けてくれた。源蔵が言うには、寛二郎の母親が子を手放すのに反対しており困っていると書かれていた。」
2021/06/07
明治四年四月二十日 (1871/6/7)
「雨後晴れ。朝の内に手紙を認めた。青甫の叔母……が訪ねて来た。私達が一時に出発する前に、一家が集合し談笑した。半左衛門の孫、寛二郎を是非教育の為に東京に連れて行きたいと思い、彼の父源蔵とその約束を交わした。寛二郎はまだ僅か四歳だ。五時過ぎに深川に到着し、大谷鉄之進の所に泊まった。松と正二郎は先に着いていて、この宿に泊まっていた。内藤元泰と……末吉もこちらに滞在している。鹿島正右衛門の部下が私を見舞いに来た。下関の大吉も来た。記、今日再び、あの子無しの御老人に逢ったので、幾許かの資金を渡した。こうして民間の実情を目撃するに、藩政の至らぬところも少なくない。官たるもの、時折民間の事情を熟視すべきだ。」
2021/06/06
明治四年四月十九日 (1871/6/6)
「雨。遠田、藤松、小松その他数名が来訪。十一時に発ち、御堀に会い別れを告げた。今朝、宿まで訪ねて来た大田老人、毛利左門、鈴木直江が門外まで見送りに来てくれた。そこから三好、野村と河野の宿に向かい、山根秀輔宛の手紙を三好に託した。そこで南野にも会った。十二時に長府に到着、二時に小月に着き、菊屋……が加わり一緒に昼食を食べた。四時過ぎに田部に到着したが、田部川の水位が橋より高くなっており、渡ることが出来なかった。庄屋の井上某が我々の為に小舟を調達してくれ、お陰でつつがなく川を渡ることが出来た―― 五時過ぎのことであった。八時過ぎに西市に到着し、中野半左衛門宅に一泊。夜、一家総出で酒食を勧められた。この家には七年前にも泊まったことがあった。記、今日は、六十歳余りの人足が、田部から西市まで私の荷物を運んでくれた。彼の話では、子供達は皆死んでしまい、彼はこの仕事をするしかないとの話だ。これは藩政の課題だ ―― 彼のような子無しの御老人は何らかの支援を受けてしかるにだ。私は彼に多少の金銭を渡した。二時過ぎから晴れ。」
2021/06/05
明治四年四月十八日 (1871/6/5)
「雨。井上小太郎が来て、日田出張について話してくれた。遠田、野村、三好、南野、入江、藤松、河野と毛利が来訪。一日中彼等と談話。今日、島田助七が戻ってきて、そのまま山口へと向かったので、井上宛の手紙を彼に託した。」
2021/06/04
明治四年四月十七日 (1871/6/4)
「晴れ。大田老人と鈴木直衛が来訪。遠田甚助も来た。九時過ぎに河野が来て、私達は一緒に伊東本陣の御堀に会いに行った。十二時過ぎに去り、常六に向かった。三好軍太郎も来て、私達は一緒に昼食を取り酒を飲んだ。その後無鄰菴に向かい、八谷を訪ね、七時頃に宿に戻った。その後池吉、遠田、野村、河野が話しに来た。夜に雨。」
2021/06/03
明治四年四月十六日 (1871/6/3)
雨。舟木を離れ、小月で昼食を取り、四時過ぎに下関に到着。今日は一時豪雨であった。常六で野村靖之助と河野亀之進に会い、伊東本陣の御堀を訪ねた。昨年の秋に御堀と別れてから二百日程が過ぎたが、その間に彼は酷く衰弱し、今や骨と皮だけになり果てていた。在りし日の壮健な姿を思い出し、私は哀れで堪らなかった。昔話をしている内に、どうも気が滅入ってしまい、暫し涙を流さずにはいられなかった。彼と別れてから、大田老人と毛利左門を訪ね、また鈴木にも会った。八時過ぎに菊谷の……に泊まった。小松健二郎と藤松多之助が訪ねて来た。池良も来た。記、内田助七が日田の近況について話しに来たので、私は自分の愚案を託し、彼を小倉に派遣した。」
==========
御堀は私より一回り若い偉丈夫で、私同様、江戸の弥九郎先生の道場で塾頭を務めた経歴の持ち主だ (写真中央、ちなみに一緒に写っているのは山縣、市君、品川と時山だ)。禁門の変、下関戦争の両方に参加した後、市君と品川と一緒に御楯隊を結成し、東行の挙兵に加わり活躍した。
維新後には、山縣や西郷従道と共に欧州視察に派遣されるなど、輝かしい前途が約束されていた。だがその旅中に肺の病に罹ってしまい、二年と経たぬ内に、齢僅か三十一でその人生を終えてしまった。人生の如何に儚きことか……
2021/06/02
明治四年四月十五日 (1871/6/2)
「曇り。松と正二郎は今朝から深川に滞在。福原太郎兵衛と大津四郎右衛門が来訪。八時頃に出仕、諸参事達と幾つかの案件を打ち合わせ、また大久保参議、山縣兵部少輔、山尾工部大丞宛に手紙を認めた。糸賀と地方政府や徴兵制の件について議論。二時に帰宅。すぐに出発の準備を整え、三時過ぎに出発。湯田で山田市之丞(顕義)と話し、別れを告げてから井上世外(馨)を訪ね、田中歳助を東京に送り出す案について話した。それから小郡に向かい、私を待っていた北川清介と重見二郎兵衛と合流。小泉屋で小休憩し、十二時過ぎに舟木に到着、大庭の所に泊まった。三時前に雨が降り始めた。記、今日、布令係の一件が決定された。」
2021/06/01
明治四年四月十四日 (1871/6/1)
「曇り。井上世外(馨)と三浦梧楼が来て、東京の近情について話してくれた。福原内蔵之允、中島四郎、久保断三、野村素介も訪ねて来た。東京の友人達からの手紙が届いた。佐畑健助も来た。四時過ぎに下関から飛脚が到着し、野村靖之助の手紙を届けてくれた。御堀が危篤で、一目私に会いたいと願っているから、早急に下関に来て欲しいと野村は促していた。山田市之丞(顕義)は昨日下関から戻ったばかりであり、今日来て御堀からの伝言を伝えてくれた。そこで私は明日出発することを決意した。世外と三浦は私に東京に戻ることを強く勧め、また三条岩倉両卿にもそのような指示をされていた。更には大久保からの手紙も届き、また今日は、口伝とは別の岩倉卿からの手紙も届き、そこには私に東京に戻るよう書かれていた。先日東京で着手された計画について知らされ、私はこの国の前途の明るさに思いを馳せ、大いに喜んだ。しかし今日、日田県から山根秀輔の手紙が届き、そこには東京の意図と相反する形で行われた薩摩の大山格之助の派兵の内容が記されていた。このような中央と地方、頭と尻尾の齟齬のせいで、人々は一体我々がどちらの方向に向かっているのか全く混乱してしまい、結果として大村や廣澤の遭難のような不幸な事件が起きてしまうのだ。政府が厳しくあるべきか寛容であるべきかという問いは良く議論されているが、私は本質的な問題は我々がいかにして条理を貫くかということだと思う。緩厳よりも、条理の方が肝要だ。条理を緩厳で語ること自体、非論理的だ。権力者達の間でも意見は一致していないことであろうが、もしこの危機的状況を通じて、一貫性のある方針が取られなければ、我々はきっと昨年と同じような失策をすることであろう。故に私は急ぎ東京に戻り、一貫性のある方針を取るよう勧めたいと考えている。」
明治四年五月十三日 (1871/6/30)
「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの...
-
「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの...
-
「晴れ。岡義右衛門、竹田庸伯、岡了亭、山本清吉(またの名を宮口)、柴田矢之助と長府の……が来た。清吉と矢之助が、柴田矢之助の息子で、私に同行し東京に行く予定の甚之丞を連れて来た。十時過ぎに出仕、東京まだ同行する者達の嘆願書だけを出してすぐに退出。忠正公のお墓参り。そして萬代屋で...
-
「晴れ。三輪惣兵衛の所で岡に会い、そこから忠正公(敬親)の墓参りに向かった。杉を訪ね、小澤を訪ね、そこで予期せず井上世外(馨)に会った。世外は今日山口に着いたらしく、東京の近情と、三条岩倉両卿からの『直ちに東京へと戻るように』との指示を伝えてくれた。六時過ぎに帰宅。同じく山口に戻...