2021/02/28

明治四年一月十日 (1871/2/28)

「晴れ。御老公が拝命の意を勅使一行にお伝えになられた。大久保と西郷が政廟まで来て、考えを両公に言上。五時過ぎに岩倉卿と会った。今朝、大久保と西郷に一緒に土佐まで来てほしいと請われ、私は同意した。終日客が絶えず、夜には友人達がまた飲みに来た。」

2021/02/27

明治四年一月九日 (1871/2/27)

 「雨、今日は勅使が藩官をお訪ねになり、従二位の毛利公が勅許を拝命した。その後、勅使一行は豊榮神社にお参りになり、刀剣を奉納した。甥の和田芳助が訪ねて来た。夜、坪井、長屋、山縣、正木、国重が飲みに来た。今夜、私は二人の毛利公に会いに政廟に向かった。天下の大勢について論じ、薩摩藩の考えを伝え、夜になる前に退出。両公とも私の考えに賛同なされ、私は感涙溢れるばかりであった。」

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豊榮神社は長州の祖である毛利元就公を祭神とした祭っており、元は宝暦十二年(1762年)以来の神社なのだが、天皇陛下に『豊榮』の神号を賜ったのはつい最近、明治二年のことであった。此度の勅使の一環として岩倉卿に刀剣を奉納頂き、またこの年後半に、現社殿への遷座が行われた



2021/02/26

明治四年一月八日 (1871/2/26)

「晴れ。山縣狂介(有朋)、三好軍太郎、有富源兵衛が来た。岩倉卿からのお手紙が届いた。二時過ぎに大久保を訪ねると、西郷も同席しており、そこで彼等の考えを聞いた。私は早くから版籍返上の案を考えていたわけだが、遂に国家がこの計画を実行することになりそうだ。私はこれを始めとして、世界諸国に並び立つことができるような、より強固な地盤を持った国家を作り上げたい。最初は足掛かりすらなかった、だが二年余りの努力の後、今日ようやく計画を実行に移す時が来たのだと、私は信じている。我々はこの計画の大意を議論し、要点に関する決断を下した。五時過ぎに退出し、岩倉卿にこの計画の主点について伝えに行った。夜、宿に戻る。来客が絶えなかった。」

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私の一生は期待と失望の繰り返しであったが、そんな中、一点の曇りもなく誇りに思っている功績を一つ挙げるとしたら、それは廃藩置県だ。明治四年は未だに安定とは程遠く、実質的な治世は未だに旧藩主達に任されていた。藩を廃し、代わりに中央政府が派遣した知事達を各県に派遣すべしという案は、当時の政府の人間なら誰もが考えていたことだが、それを今行えるかどうかは、誰にも分かっていなかった。私は元より廃藩置県の提唱者であったが、従来は漸進的な大久保もがこれに賛同し、また西郷を説得してくれたのは、統一国家日本にとって何よりの幸運であった



2021/02/25

明治四年一月七日 (1871/2/25)

「晴れ。岩倉卿一行の御入場に合わせ、山口城へ戻った。岩倉卿を客館御門でお出迎えすると、我が二人の毛利公もお出迎えに来られた。知事公は柊木に行く御用時があったので、岩倉卿とは客館でお会いになられてから、早々にお発ちになられた。私は大久保を始めとした他の客をもてなし、今現在進行中の計画について議論した。夜、山縣彌八、奥平数馬、坪井宗右衛門、勝坂之本兵衛が飲みに来た。」

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城といっても、山口城・藩庁はどちらかと言うと西洋式城郭に近かった。元は文久三年(1863年)に攘夷を決意なされた御老公が湯田への湯治と偽り萩から山口へと居を移された際に建築されたのだが、禁門の変で藩内政治がひっくり返ると一旦打ち壊され、その後慶応二年(1866年)に再建築されたのであった



2021/02/24

明治四年一月六日 (1871/2/24)

「晴れ。岩倉卿一行到着の報せ。早速問屋口に向かい、山縣狂介(有朋)と落ち合う。大久保と西郷も今日到着した。どうやら彼等の藩も落ち着いたようだ。岩倉卿を訪ね、その後大久保、西郷兄弟、河村、池ノ上に会った。夜再び岩倉卿を訪ね、そこで近情について話を伺った。」

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軍人であったことが功を奏したのか、山縣は長人の中で最も西郷に近しい一人であった。彼は薩摩まで岩倉卿と大久保に同行し、西郷に廃藩置県に賛同するよう働きかけたのであった。時期尚早と思われていたこの話は、西郷があっさりと首を縦に振ったことで加速することになる



2021/02/23

明治四年一月五日 (1871/2/23)

「晴れ。新築地を散歩し、御船蔵の中を通り、伊木見に向かった。藤松多之助が訪ねて来た。梶取、同町等も来た。終日、杉、坪井、貞永が私に同行した。今日は、肥後熊本藩の湯治一が訪ねて来た。岩倉卿と彼の一行が我が藩に到着したため、会いに来たとのことであった。杉と私は相談しに宿の山城屋に向かった。」

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御船蔵は慶長以来の毛利家の水軍基地で、東行が文治元年(1864年)に決起した折に、二十人弱の手勢と共に襲撃し、無血で軍艦を奪取したのもここの話だ(今はもう埋め立てられており見る影もないが)。私はその後、大村に請われ但馬出石での隠遁生活を終え、長州藩の指導者的位置に据えられたのであった……



2021/02/21

明治四年一月三日 (1871/2/21)

「曇り。戯れに揮毫した。私は島田助七を日田県に派遣しようと思い、先日その意向を伝えたのだが、彼は病で旅行は叶わないとのことであった。代わりに秋山周作が来たので、私は彼に松方、鳥尾、遠田甚助、池良宛の手紙を彼に託した。……が酒と食事を土産に訪ねて来た。」

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泰平の世に生まれていたら、私はどのような道を歩んでいたか?剣道家として道場でも開いたか、それともさっさと隠遁し晴耕雨読の日々を送っていたであろうか?今となっては、分からない。いずれにせよ書道は好きであったし、どこに行っても揮毫を求められた。幼少期に良き師に恵まれたことを感謝しよう



2021/02/20

明治四年一月二日 (1871/2/20)

 「晴れ。貞永蕉窓と森寛斎が来た。寛斎とは昨春、山口城で会ったのが最後だ。彼は京都に戻るところだという。家主の多之助が私の揮毫を所望し、私は彼の為に何作か書き上げた。寛斎にも私の手による送別の書を求められた。『昨年、我山口城で私を見送ったのは君であった。今年は私が華浦で君を見送っている。私達は流水のようにまた別れ、また会う。次に京都で再会出来るのはいつの日のことであろう』私は浮かんできた言葉をそのままに、筆を走らせた。食事と酒を嗜んでから、一時過ぎにその場を発ち、興丸公(毛利元昭)のお宅まで謁見に向かった。その後、楫取と同町に会いに県庁に行き、そこから貞永蕉窓宅に向かった。一日中、杉と坪井が付いてきた。楫取、同町と山根が泊りに来た。」

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寛斎は勤王画家とでも言える存在で、長州藩の京都における密偵の役割を果たしていた。絵師の身分を生かして同志達の密会の場を設けたり、京都の様子を伝えたりと、情報戦で活躍した。欲の無い好人物で、維新後に新政府で働くよう私が勧めたのも辞退し、絵に専念し『明治の応挙』として大成した


寛斎の絵は情趣的で、内国勧業博覧会などでも大層好評であったが、志士時代の彼の面白い作品と言えば、やはり人体的異人図(京都大学付属図書館所蔵)であろう。攘夷志士が悪ノリで依頼した射撃の的で、ご覧の通り無数の穴が開いている。これを嬉々として撃っていた者達の多くは、池田屋の変や禁門の変で命を落としてしまった。一方生き残った我々は開国に舵を取り、積極的に異人達と交流し始めた……かつての同志達が今日の我々を見たら、一体なんと思うのだろうか?この絵を見るたびに、私はそう疑問に思わずにはいられない



2021/02/19

明治四年一月一日 (1871/2/19)

 「空晴れ渡り、空気は新鮮で、新年の寒さは骨身に堪えた。一面の雪は陽の光を映し、絶妙な光景を生み出していた。貞永の一家が集まり、藤松と私が加わり、皆でお屠蘇の盃を傾けた。猿村(杉孫七郎)と私はそれぞれ揮毫と水墨画を試み、それから新年祝いの一品を合作で書き上げた。『屋根高く雪は朝日を映し出している。今年初の東風が吹き、開け放たれた扉からこの目に映る素晴らしい景色 ― 海、山、川 ― 全ては大君のお陰だ』正午になると軍艦が祝砲を放ち、私は友人達と共に藤松多之助の所に向かった。十七年前、伊勢小淞と浪華に向かう道中、我々は強風に拒まれ、三田尻に数日滞在せねばならなかった。あの時、伊勢に誘われ、私は初めて藤松の所に行ったのであった。我等の国は、当時平穏なものであった。これだけの月日が過ぎた今、今日またこうして宴を開けるとは、人の一生とは予想できぬものだ。我々は過去を想い悲しんだが、同時に幸せでもあった。友人達と飲み、語り、私はここ数年新年に感じたことのない閑静を感じることが出来た。殊更堪える寒気を感じ窓を開けてみれば、空には雪の欠片が浮かび、庭の竹をに積もったそれはまるで花が咲いているかのように見えた。私はその場でこう吟じた。『短い竹の杖を手に、私は友の家を訪ねる。陽の光が冷たい雪の上に影を落とす。お屠蘇を飲み終える前には、庭の竹は突如咲き誇っていた』夜になり、楫取と同町が遊びに来て、我々は飲み、語った。」

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猿村(杉孫七郎)は長州人の中でも、漢詩や書の名人という点で最も風流人な男であった。余り知られていない話だが、彼は東行が参加し損ねた幕府の文久遣欧使節団(1861年)に雑用係として加わることに成功し、その報告書を読んだ周布さんが例の長州ファイブを留学させることを決めたのだ。ある意味、俊輔、聞多、山尾、遠藤、彌吉にとっての恩人と言えよう。教養があり、かつ気の置けない仲間と言うことで、彼には宮内省で頑張ってもらっていたが、それよりも何よりも、彼と酒を飲み交わしながら漢詩を吟じ、書を競うのは私の一番の楽しみであった



2021/02/18

明治三年十二月二十九日 (1871/2/18)

 「昨夜から強烈な雪嵐が続いている。辺り一帯が銀世界と化したようだ。藤松、同町、貞永、そして平原平右衛門が訪ねて来た。一日中、語り合い、酒を飲み交わし、碁に興じた。ここ数日は寒さが厳しい。今年も終わりが近づいてきている。今年ほど閑静な除夜は、近年思い出せない。我々は昨冬の国難について話し、各々がどのように苦心奔走したのかを語り合った。平原が竹田作の掛け軸を二つ、山陽の掛け軸を一つ、伊孚九の山水画を持ってきた。」

2021/02/17

明治三年十二月二十八日 (1871/2/17)

「晴れ。午前中に岡部仁之助と三好軍太郎宛の手紙を書き上げ、留守を守っている山尾宛の手紙と合わせて、吉田右一郎に託した。十二時頃に、杉と坪井と共に鶴浜の貞永に会いに行き、そのまま彼の所に泊まった。記、家主の文右衛門は上京していて不在。河野……が訪ねて来た。彼は先日雲揚丸に乗り豊後まで出かけていたのだが、今回日田巡察使の指図でこちらの港まで戻ってきたのであった。彼が見分してきたことについて聞くにつれ、これは私の願っていたところと正反対であったのは残念なことだ。早急に、日田県に抗議の手紙を出したい。」

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坪井は長州人には珍しく海軍の道を選んだ人間で、更に海軍の人間にしては珍しく米国留学経験者だ。戊辰戦争経験者でもあるが、一番活躍したのは日清戦争の黄海海戦で、第1遊撃隊司令官として華々しい戦果を挙げた。ちなみにこの時彼の指揮下、浪速の艦長だったのが東郷平八郎だ



2021/02/16

明治三年十二月二十七日 (1871/2/16)

 「昨夜の風雪は明方まで続いた。十一時頃に海老名屋の坪井の部屋を訪ねる。対酌で語り合っていると、楫取と藤松が加わった。夜十時頃に宿に戻った。」

2021/02/15

明治三年十二月二十六日 (1871/2/15)

「晴れ。今日は西風が強かった。楫取素彦、坪井……と貞永幽之助が来た。十時過ぎに、一同で向島の藤井鉄之助の元に向かい、五時過ぎに宿に戻った。山尾庸三からの手紙が届いた。記、今日は秀策に薬を貰った。」

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楫取さんは長州年長組の一人で、松陰先生とも縁の深いお人だ(事実、先生の二人の妹、寿さん文さんと結婚している)。御老公の覚えも目出度く、この当時は側近としてお仕えされていた。御老公お亡くなりの後は、熊谷(群馬)県知事となり、富岡製糸場を含めた製糸業の発展や教育事業に尽くされた



2021/02/14

明治三年十二月二十五日 (1871/2/14)

「小雨。十時に湯田を離れ、一時頃に勝坂……に着き、休みながら昼食を食べた。ここでは杉遠邨が私を待っており、そこから共に三田尻部署まで下山した。貞永幽之助を訪ね、九時に問屋口の竹内素助に会い、夜はそこに泊まった。岩倉卿は昨日か今日到着する予定であったが、まだ到着したとは聞いていない。記、貞永の山根秀策に会い、話をした。」

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貞永は三田尻で塩等を取り扱っていた豪商一族で、献金等での藩への貢献も目覚ましく、その縁から聞多や私はよく出入りしていた。慶応二年の暮れ、私が英国キング提督と両公の会見を手配した際にも、貞永に相談して隼太邸を使わせてもらったのであった。我ながら上出来な饗宴であったと自負している





2021/02/13

明治三年十二月二十四日 (1871/2/13)

「晴れ。十二時前に瓦屋を出て、高杉、野邨、毛利を訪ねてから、両公との謁見にお城へと向かった。岩倉卿が山口を訪れる予定であることを報告差し上げた。退出後、大津を訪ね、六時頃に瓦屋へと戻り宿泊。夜に雨。記、竹田の治療を受けた。」

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長州の両公については何から話せばよいか……御老公は人一倍に人物眼に優れ、強く民を想う心をお持ちの名君であった。年功序列を一切気にせず有能な若手を取り立て、また私欲野心を持たず、維新の折には他藩に率先して版籍奉還にご賛同下さった。この御方に仕えることが出来たのは私の一生の幸運だ。知事公(毛利元徳)は御老公とは縁戚の養子だ。小姓の一人が聞多であったこともあり、また年齢的にも御老公より少し過激なところもあったが、常に御老公を立て、二人一丸となり我々を手助けして下さった



2021/02/12

明治三年十二月二十三日 (1871/2/12)

 「晴れ。三好軍太郎、大津四郎右衛門、中山勝士、柏村と杉の両大参事、久保小参事、吉田と白根の大属、加えて数十人が、暁から日が暮れるまで絶え



ず来訪。六時頃に湯田の瓦屋に向かい一泊した。久保、大津、中村芳三郎、三好軍太郎、瀧弥太郎、杉山宗一、大可大眉を含めた十数人とそこで落ち合った。」

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瓦屋は私を含めた数多くの志士達が幕末・明治を通じて利用した、湯田温泉での定宿だ。長州の人間は無論のこと、大久保や黒田、中岡慎太郎、田中光顕といった他藩の面々も泊ったことのある由緒ある宿で、市君(山田顕義)なんかは、この宿の娘、龍子さんと結婚までしたほどだ

2021/02/11

明治三年十二月二十二日 (1871/2/11)

 「朝、内藤玄泰の老母がお越しになられた。私は九時過ぎに舟木を発ち、十一時に山中を越え、一時過ぎに小郡に到着、小泉屋で休憩。北川清介が来た。秋元新蔵も訪ねて来た。鴻城(山口城)には三時過ぎに到着。役人達はもう退出後であったので、私は柏邨大参事を訪ね、六時に帰宅。中山澄江と……利兵衛が小郡近辺まで迎えに来た。」

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秋元はいわゆる勤王庄屋で、幕末には値千金の働きをしてくれた。慶応元年に東行が挙兵した折、長州藩内での内戦に勝てた一因が、秋元を含めた庄屋同盟だ。秋元は農家の次男三男をかき集め、自費で劇剣場を建て剣を習わせ、農兵隊を作った。国を憂いていたのは侍だけではなかった

2021/02/10

明治三年十二月二十一日 (1871/2/10)

 「晴れ。部屋は見送り客で一杯であった。十時に出発し、関門まで来たところで、小月で食事をした。厚狭の国弘の所で一休みし、六時前に舟木の大庭の所に到着した。阿部小史と内藤玄泰が来た。十二時に解散。記、林……が来た。」

2021/02/09

明治三年十二月二十日 (1871/2/9)

 「晴れ、後雨。李家、片山、野村、能乃、入江、宗像、紅喜、池龍、油清、平原、大木、玉池等、他にも数名の来客あり。朝から深夜まで飲み語った。」

2021/02/08

明治三年十二月十九日 (1871/2/8)

 「晴れ。市中を散歩し、旧友を訪ね、亀山神社を参拝してから五時過ぎに宿に戻った。夜には大中と遠田と共に大阪楼を訪ねた。この新築の小茶屋の座敷で二、三杯ほど酒と会話を楽しんだ。能乃も参加した。十一過ぎに宿に戻る。遠田と宗像が芸妓を三人連れて来た。」

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下関の亀山八幡宮と言えば、俊輔と梅子さんの馴れ初めの地だと聞いている。イギリス帰りで、開国論者の筆頭のような立場にあった俊輔が身の危険を覚えて境内に逃げ込んだ際に、梅子さんに助けてもらった、と言う話らしいが……?



2021/02/07

明治三年十二月十八日 (1871/2/7)

 「晴れ。五時過ぎに錨を上げ、十一時頃に下関に到着、上陸。四条少将を始めとした諸官は、伏見から連れて来た二中隊と共に、小倉に上陸した。私は網三の所に泊まった。野村靖、李家文厚、宗像宗十郎、平原平作、小松……と池良が来た。」

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李家文厚は毛利公の侍医の一人なのだが、馬関戦争から西南戦争に至るまで従軍医を務められた方で、砲弾が飛び交う中、高いびきで寝ることが出来るほどの豪傑だ。東行の主治医の一人として、最期を看取ってくれた、私にとっての恩人でもある



2021/02/06

明治三年十二月十七日 (1871/2/6)

 「終日、不安定な天気。五時過ぎに上関沖を過ぎ、六時頃に再び強い西風が吹き始め、東向きの潮流に巻き込まれる。十一時に豊後の姫島に到着し、そこで一泊。」

2021/02/05

明治三年十二月十六日 (1871/2/5)

 「晴れ。六時過ぎに運上所に行き、そこから松方と舟に乗り川口まで向かい、政府の船に乗り変えてから龍雲艦に乗り込んだ。船は十一時に錨を上げ、伊予の……に朝の一時に到着。そこで錨を降ろし一泊。夜に雨。」

2021/02/04

明治三年十二月十五日 (1871/2/4)

 「晴れ。七時に松方が来て、我々は天保山沖から肥後の蒸気艦に乗った。乗船後、海は次第に荒れてきて、兵隊達は乗艦出来なくなった。そこで私は松方と共に天保山に戻り、陸では四条陸軍少将、林少丞と鳥尾小彌太に会った。明日乗艦するための手筈をして、運上所を訪ねた。ざこ揚茂左衛門が駐屯している、橋北の松屋栄二郎の所に泊まった。松屋は小松屋勝二郎の出店だ。於福屋と鹿島も一緒に来た。」

2021/02/03

明治三年十二月十四日 (1871/2/3)

 「晴れ。十時過ぎに長州藩邸に戻り、廣澤、三浦、後藤宛に手紙を出した。私の部屋は来客で満座であった。井上、山田、山縣等が話しに来た。岩倉卿を含めた人々は今朝乗艦の予定であったのだが、荒波でそれが叶わず、山縣もそれで藩邸に戻ってきたのだという。井上から最近の不安要因について聞かされ、私は三条公に向けて手紙を出した。今日もまた十点以上の揮毫を行った。」

2021/02/02

明治三年十二月十三日 (1871/2/2)

 「晴れ。来客絶えず。四時過ぎに大久保を訪ねたが、不在であった。すぐに岩倉卿の元へと向かい、長時間の議論を交わした。帰り道に平原と共に、高麗橋から舟に乗ったが、水位が低すぎたため陸に上がり……に向かった。小川も来た。十二時過ぎに堺屋に行き、一泊。記、今朝は十点以上の揮毫を行った。」

2021/02/01

明治三年十二月十二日 (1871/2/1)

 「晴れ。九時に大久保を訪ね、共に岩倉卿の家に向かい、兵部省出張所へ軍隊の調練を見分。その後、大阪城内の諸局を見学し、天守閣へと登り眺望した。豊臣秀吉公のこの地に抱いていた計画の規模の大きさが想像できた。二時過ぎに藩邸に戻り、山縣と高屋から土佐の近況について聞いた。高屋は日田行きを止め東京に戻ることを決めたため、再び岩倉卿を訪れ、山田と高屋とも相談しつつ、代わりに林少丞を送り込むことを決めた。七時過ぎに退出し、帰り際に大久保を訪ねてから、藩邸に戻った。」

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私は昔から秀吉公を深く尊敬している。生まれ身分ではなく、ただ身一つで立身出世を成し遂げたという彼の痛快な功績は、誰もが倣うべきものだ……と、大久保に話してみたところ『私は、より辛抱強く、より効果的な国造りに成功した家康公のほうがより尊敬しています』との返事が返ってきたのであった

明治四年五月十三日 (1871/6/30)

「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの...